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スケッチブック 〜写真で綴るスローライフな日々2

写真を撮りながら、日々の暮らしや旅先で感じたことを書いています。
2016年からは撮った写真をイラスト化しています。

京都 北野天満宮と御土居の紅葉

2013年12月02日 | 文化/歴史/技術
今年も師走となりました。早いなあ。最近、予定が詰まっている人とか予定の変更をお願いしたい人が僕のまわりで増えています。予定変更が続くと疲れますね。我が家も受験生をかかえているので、これからいろいろ忙しくなりそうなことは分かっていますが、当の本人が一番ボケッとしているようです。仕事で京都にやって来たので、どれ合格祈願でもしておくかと思い立ち、北野天満宮へ参拝することにしました。学業の神様、菅原道真が祀られています。この歴史上の人物を掘り起こすのも面白いに違いないのですが、本日は神頼みであります。参道は歩かずに上七軒(東参道)を通り抜けて境内に入ることにしました。上七軒も大好きな場所の一つです。町家の面影が色濃く残る路地に惹かれます。特に夜がいいですね。一度、地元の方に案内されてお茶屋で遊んだことがあります。上七軒も奥深いところなので掘り下げたいテーマですが、本日は神頼みであります。先へ進みます。菅原道真と牛は縁が深く、太宰府天満宮も牛がいます。見渡すと牛の数は多いですね。ツルツルになってテカテカの牛を撫でて合格祈願です。親としても心配なんですよねえ。(本人じゃないとご利益無いのかな。)学生も大勢参拝していました。一通りお参りをしたので、紅葉狩りも楽しもうと思い、隣の御土居(おどい)へ入ろうとしたら、入場料が必要でした。何?600円!引くに引けずお金を払うと「お茶とお菓子が付きます。」と何だか申し訳なさそう。とにかく中に入りました。ところで御土居って何でしたっけ?時間がないし、紅葉が見頃なので歩き回って写真を撮ることに専念しました。辺り一面、落葉した葉が散りばめられ、見る角度によっては視界に紅葉が広がります。家に戻ってから調べたら、御土居とは秀吉が築いた土塁(堤)で、京都をぐるりと囲んでいるので、この中を洛中、外側を洛外と呼ぶそうです。京都都市開発の基本中の基本でした。要はその土塁に紅葉を植えたので御土居の紅葉となったわけです。(勉強不足)平日でもお客は大勢いました。それでそのお客が邪魔で写真が撮れません。観光地っていつもこれです。だけど、人影が入らないように頑張って撮りました。ふうー。あ、そうだお茶とお菓子がいただけるんだっけ。茶店でお菓子を受け取り、台に座りほうじ茶は自分でポットから入れるシステムです。日暮れが近いので寒くなってきました。もう帰らなきゃ。今度はゆっくり来たいなあ。




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ブルーインパルスのハートマーク ~各務原航空ショー

2013年11月24日 | 文化/歴史/技術
思い付きでつぶやく我妻。「航空ショーが見たい。」何でまた?と僕は思うのだけど、行きたいと口にするのだから行くことにしました。僕は自衛隊の行事には参加したことがありません。調べてみると各務原基地への入場は無料ですが、正規に駐車場を設けないために電車の利用を促しています。来場者数は10万人以上。相当な混雑が予想されます。朝から名鉄電車を利用しましたが、岐阜駅乗り換えでラッシュ状態。おまけに最寄り駅名鉄三柿野駅の降車が難しいとアナウンスされ、手前の六軒駅で降ろされました。各務ケ原基地の滑走路で行われる岐阜基地航空祭にブルーインパルスの展示飛行が同時に行われるため、カメラを持った見物客がブルーインパルスをお目当てに集まります。悪いことは言いません。かなりの人出があります。トイレの行列を見ると飲食はしないでショーに没頭するのが良いと思いますし、帰りの切符は購入しておいた方が得策です。本日は絶好のブルーインパルス日和になりました。秋の青空は高かったです。会場に着く前から響くFー2やFー4など攻撃型戦闘機の低空フライトの爆音は聞いたことがない人にはわからない凄まじさがあります。航行スピードの速さは圧倒的で、四発プロペラ機のCー130輸送機の優雅な飛行とは全く違います。空中給油の編隊飛行もよかったのですが、圧巻はブルーインパルスに尽きますね。本物を見るか否か。見てください。今回の飛行で使用した六機のインパルス機はKHI製のTー4が元機体です。F機とは違って訓練用のトレーニング機として設計されたので、小型で小回りを得意とするのではないかと勝手に思っています。戦後の日本は戦闘機を製作することはできなくなりました。アニメ「風立ちぬ」では零戦がテーマの一つだったこともあり、日本製の小型機でアクロバット飛行する技術に魅了されるのは僕だけでないことは調べるもまでもないことです。一眼レフカメラに望遠レンズを装着し、それでも腕のあるカメラマンでないと写し難い被写体であります。コンパクトデジカメでは、そこそこの写真が精一杯でした。居芸飛行や編隊飛行に歓喜を寄せながらも逆光の太陽の中、二機のスモークが描くハートマークを一生懸命撮影しました。素晴らしい。わずか数秒のできごと。防衛にコストがかかることは理解できます。平和にはお金がいるということです。ブルーインパルスのハートマークが毎年観られることは良いことではありませんか。

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伊勢 式年遷宮の伊勢神宮

2013年11月20日 | 文化/歴史/技術
二十年に一度の式年遷宮が行われた伊勢神宮に参拝してきました。遷宮の儀式は数年に渡って続くため、今も全部終了しているわけではありません。先月、遷御が執り行われたために僕としては年内中に是非お参りしておきたいと思っていました。つい最近出雲大社へ行ったばかりなので、今年はダブルで式年遷宮直後の参拝です。JR名古屋駅とJR伊勢市駅の間には二ヶ月間の臨時急行列車が運行されています。全車指定席の上、シートは新幹線の払い下げなのでゆったり座れます。四枚綴りの割引回数券と合わせると二人なら料金も近鉄と競争力があると思ってJRで行くことにしました。電車は空いていたので知らない人も多いのかな。伊勢神宮の参拝は、初めてではありません。休日はきっと混むだろうと思って平日を選んでやって来ましたが、団体客が押し寄せやっぱり大勢人はいました。伊勢市駅から歩いて外宮の参拝から始めます。参道は観光客用の土産屋や休憩所がリニューアルされ、こちらも新築の店舗が増えていました。外宮の正宮は真新しく改築され、気持ちも新しくなったような気がしました。別宮の多賀宮、風宮、土宮なども参拝しバスで内宮に移動します。内宮では手水舎だけでなく、五十鈴川にも足を運んで手を清めました。本来は全身を清めるのが正式な作法なのだか。と口にすると、同行の妻が言うには、二見浦の海に入り禊(みそぎ)をするのが正式だとか。海や川に入れと言うなら、オープン・ウォーター・スイミングをすればいいのでは?と一人納得しながら、内宮も参拝しました。初詣の時は行列ができて階段を上がるのに相当時間がかかりましたが、そこまで人が詰めかけているわけではなく、無事に参拝することができました。こちらでは荒祭宮も拝んできました。これで何とか年内に六十年に一度の遷宮を済ませた出雲大社と二十年に一度の遷宮を済ませた伊勢神宮へ訪れることができました。身を清潔にして暮らすことは、病気にかかりにくくする古代人の知恵だと僕は思っていますが、このように建造物さえも新陳代謝させることが祓いになるという思想にも共感することができます。疫や厄を祓い落としてくるのが神社参拝の目的ではないかと思えるようになってきました。神様に手を合わせた後は、おかげ横丁でお腹を満たしました。伊勢牛で名高い「豚捨」(ぶたすて)で牛丼をいただきます。濃い味のタレとオニオンの旨味が強烈でした。お土産に牛コロッケも買いました。大好きなコロッケなんですよ。

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橿原 藤原京跡

2013年11月07日 | 文化/歴史/技術
出雲詣での続き。それがどうして藤原京なのか。でも僕には大きな接点を見つけてしまったので、ここへ来るしかないと思いました。藤原京はまだ発掘が完全ではありません。ですが、その規模は平城京や平安京と肩を並べるものであるらしいことが分かってきました。場所は天香具山の近くで大和三山である畝傍山、耳成山に囲まれた地形にあります。実際、朝堂院南門跡地に立ってみると正面に耳成山が見えて左右に天香具山と畝傍山がありました。藤原京は日本で初めて築城された都だと言われます。天皇が住む内裏、政治や儀式を行う大極殿と朝堂院などがあり、現代では赤い柱を建ててその所在地をはっきりさせています。バッタが飛ぶだだっ広い野原ですが、ここに都がありました。今で言う皇居と国会議事堂と霞ヶ関を一カ所に集めて国の中央(首都)としたものです。このスタイルを実際に造ろうとしたのは一体誰か?ということが歴史のクエスチョンです。早い話が藤原不比等その人です。藤原京とは後から学術上つけた名称です。わずか16年で平城京へ遷都されますがその理由は不明です。中臣鎌足(藤原鎌足)の息子である不比等は表立って活躍をしない人でした。鎌足が蘇我入鹿の首をはねてクーデターを成功させ(乙巳の変)、中大兄皇子(天智天皇)の即位後に大化の改新が行われるのですが、その辺りで日本という国の形ができあがったと僕はみています。目まぐるしく天皇の即位が変わる裏で、不比等が影で日本の土台を構築しました。結果的には平城京へ落ち着くとはいえ、この時代に都の築城、大宝律令の発布、記紀の編纂が進むのです。その全てに加担したのが不比等なのでした。国家に必要不可欠なハードウエアとソフトウエア(アプリとOS)を同時に作り上げてしまったのです。iPhoneとiOSとiTunesを同時に世に出したスティーブ・ジョブズみたいな人です。大宝律令では天皇の権限を制限し、摂政である藤原家が権限を代々受け継ぐシステムを組み込むことを忘れず、日本書紀にいたってはペンネームを使い直接編集に携わっていたらしいのです。不比等は策略家であり大政治家でしたから、いくつかの不都合なものを封印しました。自分がしたことを伏せています。出雲はヤマトに国ゆずりをしました。多分、本当でしょう。それで何もなかったはずがありません。出雲大社を建立したのは不比等だと梅原猛は指摘します。オオクニヌシの霊を祀るため祟りがないように鎮魂目的であの巨大な施設が必要だったのだと。その証拠はこれからもいろいろ出るでしょう。日本で最初の都は藤原京と呼ばれています。
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稲佐の浜から古代出雲歴史博物館

2013年10月26日 | 文化/歴史/技術
出雲大社参拝の後に歩いて稲佐の浜に来ました。出雲には風土記(写本)が完全に現存していて、経緯(時間)を辿っても、地形(空間)を辿ってみても一致することが多分にあり、史実を反映しているとさえ考えられるようになりました。コシ(越ー北陸のことで越前、越中、越後に分割)の八岐大蛇を退治したのは出雲に来たスサノオで、越国(翡翠の産地)と出雲国との争いで出雲が勝利したような話があり、その後スサノオからオオクニヌシに覇権が移り、その息子であるコトシロヌシがこの浜辺でヤマトに国を譲ることを決めた場所です。この伝説は重要です。江戸城の無血開城は、維新の美談ですが日本人の心に染み付いた何かを想起します。武力制圧ではなく協議による国の併合があったのではないか。そう思わざる得ないのが稲佐の浜のできごとです。弁天島と呼ぶ大岩は、昭和六十年くらいまで沖にあったっそうで今では砂浜と陸続きです。おそらく古代には海岸線が内陸だったために遥か遠くに見えたはずです。ベンチマークだったでしょう。出雲大社の最重要儀式は神在祭(かみありさい)で、この浜から全国の神様が年に一度やって来るので迎え入れる祭事が行われます。何度も本で読んだ場所に来ました。神在月となる出雲とは反対に、他は神無月となる時期に神様が出雲で縁組みの相談をすると言われることから、結婚の神頼みをする独身者が全国からやって来るとか。ご苦労様です。さて、もう一度出雲大社に引き返し、隣にある古代出雲歴史博物館を見学しました。何が置いてるのか調べずにふらりと入館したので感動も大きかったです。というのは古代に出雲に王朝があったとされる一番の証拠、銅剣と銅鐸が展示されていました。この博物館で保存されているとは知らず、意外なところで出会うことができて嬉しかったです。これまでの古墳、神社、祭り、人名・地名などの他に出土品が大量に出たことで、出雲王朝の存在を確信した人が多いのではいでしょうか。大陸と日本を逆さまにして日本海を中心にした地図がパネルになって神話のレイアウトを説明していたことも注目したいところです。見方を変えると出雲の位置の重要性が理解し易くなります。それと「たたら」のジオラマは興味深いものでした。鉄は農具や武器に加工します。司馬遼太郎曰く、出雲は「出鉄」(イヅモ)と呼ぶのが正しく、大陸から製鉄技術を持った人々が移り住んだと主張しています。八岐大蛇伝説は製鉄技術の話で草薙の剣はその工業製品だというものです。当時、鉄は国の産業と軍事力を支えたはずです。館の職員に質問すると詳しく説明してくれました。奥出雲では、「たたら」が保存されているところがあり見学もできるそうです。出雲は縄文、弥生と人が住んでいたので、大陸から稲作や製鉄技術が伝わり発展したのだろうと推測できます。「たたら」は大勢の労働力とチームワークが必要です。それに火力を確保する材木は、梅雨と台風が来る日本では再生能力が高いので、森を維持することで長らく鉄の加工品が生産できたのだとする説にも関心があります。出雲では日本人の心の原点を再確認できます。

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出雲 出雲大社

2013年10月26日 | 文化/歴史/技術
今年、2013年は「平成の大遷宮」と言います。平成と決めてしまうにはその先しばらくないという意味が込められています。出雲大社は60年に一度、御本殿の改装工事を執り行います。その間、神様を別の場所に鎮座させてまた戻す儀式が行われます。全体の改修工事は何年もかかるので、まだ改修は続きますが出雲の神様であるオオクニヌシは御本殿に戻りました。とにかく年内に参拝しようと思っていましたが、ようやく出かけることができました。前の晩に京都でお酒を飲んで過ごし、深夜バスで今朝方出雲市駅に到着しました。(寝ムイッ!)台風がそれてくれたので雨は差し支えない程度のものだったので助かりました。神様に感謝します。僕が出雲の地に訪れるのは三度目です。だけど出雲大社に参拝するには初めてなので少々興奮しています。なにせ神社巡りが好きで全国の一宮はいつか全部参りたいと考えている人にしてみれば出雲国の一宮は格別ですから。出雲市駅からバスで移動しました。朝はさすがに飲食店などほとんど閉まっていて観光客も少なかったです。(でもいる!)勢留の大鳥居をくぐり、祓社で身を清め、松の参道を進み、手水舎で手と口をすすぎました。ここにはオオクニヌシの像があります。「幸魂奇魂」(さきみたま くしみたま)について解説が書いてありました。要約すれば、命に感謝し生きる幸せを願うということでしょう。「縁」を「ムスビ」、「おかげ」をいただくことができたのがオオクニヌシとされています。ムスビの神様オオクニヌシは大国主と書きますが、国王を指していることは明らかです。出雲王朝がヤマト王権より先に誕生していたことは、ほぼ史実とされるようになりました。僕は、最近の梅原猛や松岡正剛などの論調に同意的です。出雲王朝が存在していたことはあまり学校で教えてくれませんがそこの事情はさておき、真実に近づきたいと思えば出雲大社参拝は悲願なのです。銅の鳥居を抜け、拝殿にて二礼四拍手二礼。これがやりたかった!四拍手の儀礼はここ出雲大社だけです。注連縄がたまりません。(ただし大注連縄は神楽殿のもので、見学するのを忘れました。不覚。)拝殿の裏に回るとそこには八足門(やつあしもん)がありここで御本殿を拝みます。石畳にミッキーマウスのような図柄があるのは、出雲大社が『雲太」と表記され高さ日本一だった証になる宇豆柱の跡を示しています。昔の話ですが、宇豆柱についてのNHKドキュメンタリー放送を観たことがあります。その信憑性に心を奪われたのは僕だけではないでしょう。ぐるりと御本殿の周囲を歩くと、大社造りの御本殿が垣間見えます。大きな千木と鰹木が神々しくてノックアウトされそうでした。

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白山 白山比め神社

2013年10月21日 | 文化/歴史/技術
霊峰白山は古代から信仰の山として地元の人達から崇められてきたとされています。その白山の麓に鎮座するのが白山比め神社(しらやまひめじんじゃ)です。加賀の国の一宮です。白山市(ハクサンシ)白山スーパー林道(ハクサンスーパーリンドウ)などからハクサンと発音したいのですが、そこをシラヤマと発音するのは、親しみを込めて「しらやまさん」と地元の人がこの神社を呼んでいたからです。伝説では崇神の年(紀元前)に創建されたとか。場所は災害などで移転を繰り返し今の場所に落ち着き、住所が三宮となっています。白山の山頂には奥宮があり、白山信仰との結びつきは大変強い神社です。アニミズムを色濃く残している気がします。白山神社の総本山のことだけあり、平日の午後訪れたのですが、参拝者は後を絶ちません。ちょうど七五三の時期でしたので可愛い着物姿の子供達もちらほら見かけました。決して広大な境内があるわけではありませんが、数々の巨木が植わっていて、神秘性は十分に感じ取れます。樹齢1000年と推定されるケヤキは迫力があるし、歴史を背負っているかのようなオーラもあります。弊拝殿という拝殿には今年収穫されたお米が奉納されていて、大きな注連縄が目立っていました。灯籠は通常石でできていますが、大きな木製の灯籠がありました。狛犬も立派な大きさです。初めて来てみた印象ですが、独自の雰囲気を感じました。神馬舎には装飾が綺麗な神馬の像が飾られています。伊勢神宮では天皇家の白い馬が飼われていますけど、こちらはフィギュアでございます。当然ながら御神体は白山となります。ですので白山登山道の開発とこの神社は密接な関係を持っています。加賀の歴史は、加賀百万石と言われた戦国から江戸時代にかけてが輝かしく感じるので、僕は浄土真宗=一向一揆というステレオタイプなイメージが浮かびます。ですが、ヤマト王権誕生以前のこの地は「越」という国が存在し、大陸と交易を行い出雲の国と争った経緯があるようです。継体天皇は越前で暮らしたとされていることからも、決して日本の国の黎明から外された土地ではありません。現代では太平洋側が栄えています。アメリカと近いためか、気候や平らな土地の広さなのかわかりませんが。しかし、大陸方面から人が移る場合は、まず日本海側から侵入するのが普通であって、日本の始まりは多分日本海側から開拓されたに違いありません。謎がまた深まってきました。

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鎌倉 鶴岡八幡宮

2013年10月09日 | 文化/歴史/技術
いざ鎌倉ってわけでもないのですが、鎌倉に来ました。横浜に移動する途中、ちょっと寄り道です。というのは鎌倉には何度か訪れていますけど、鶴岡八幡宮にちゃんとお参りしたっけ?と資料を見ながら思ったからです。確か境内には入ったはずだけど、拝殿の前で二礼二拍手一礼をしたものかどうか?だったら参拝すればいいじゃないかと思ったのです。JR横須賀線に乗り換えて鎌倉駅を下車すればすぐに鶴岡八幡宮の参道の前です。世界遺産の登録は逃してしまいましたが、古都鎌倉は人気の観光地です。平日というのに観光客でごった返しでした。まるで原宿か嵐山ですよ。といわけで参道に沿って歩き鶴岡八幡宮へ向かいました。若い人も年老いた人も多いですねえ。外国人のグループも目立ちます。神道でいう八幡宮は宇佐八幡宮が総本社で、ここ鶴岡八幡宮は三大八幡宮の一つです。不思議なのは三大八幡宮が四つあることです。神社ファンの僕にはこのくらいの謎でしたら寛容的な立場をとります。よく解らないことが分かりかけたところですからね。今日の鎌倉の歴史的価値を決定づけたのは、紛れもなく源頼朝がこの地に日本で初めて武家が政局を握る幕府を開き都としたことです。三山一海という地形を利用した開発都市であることはあまり知られていないことのように思います。そして古代の遺跡が数多く眠ることから、現在は奈良、京都と並び土地開発や自然保護が厳しい場所です。鶴岡八幡宮は、町づくりの中心に備えられて、幕府の権威と八幡宮の信仰と重ねたに違いなく、武家と八幡宮の関係は江戸幕府まで引き継がれていくのです。石段の上に本宮(上宮)があり、拝殿はないのでここで参拝をすることになりますが、後ろを振り向くと真っすぐ参道を見下ろすことができてその先には海が見えます。ここから一目で鎌倉を見渡すことができるのです。石段の下の境内に舞殿と若宮(下宮)があり、他にも古い神社などがコンパクトに収まっていました。じっくり眺めると八幡宮は他の神社とはまた違う趣を感じますね。僕がここへお参りするのは宗教上の活動ではありませんが、観光に来ていたタイの僧(木綿の黄衣を着ていた。)のグループは僕達日本人をどう見ているのだろうと思いました。そのタイの僧もかき氷を食べ歩きしていましたが。(修行中ではないだろうな。)

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ヴォーリズを探せ! ~旧水口図書館

2013年10月04日 | 文化/歴史/技術
滋賀県内にはヴォーリーズ建築は数多く残っていますが、必ずしも保存様態が良いわけではありません。ですが、鉄筋コンクリート造りの物件は、今なお使用が可能なくらい良いものがあります。旧水口図書館のことは気になっていました。休日に一般開放があると知ってからは、どうせなら内部を見たいので機会がある時にしようと思って封印していたのですが、ふと思い出すと行きたくなるもので、平日の今日、仕事で水口に来たついでに見学することにしました。天気は曇り。風弱し。昭和3年に水口町の図書館として寄付金を元にヴォーリーズ建築事務所が設計を担当して建てられ、ずっと街の図書館でした。今は使われていないようです。そして、水口小学校の中にあります。小学校の中・・・。到着するまでは門の手前から撮影するしかないと考えていました。ちょうど下校時間だったみたいで、校門からはランドセルを背負った小学生がぞろぞろ出てきました。しかし、どうしても撮りたい角度というものがあるので断りもなく校門の内側に侵入して撮影させていただきました。門番もいなくて、施錠しているわけではない学校なのです。でも僕が建築マニアなのか不審者なのか見極めるため、先生らしい人が玄関の中から監視しているようでした。そこへ下校途中の小学生の集団が通り過ぎ、その中の一人の女の子が「心霊写真撮ってはる。」とつぶやきその直後に「こんにちは。」と声をかけてきました。「こんにちは。」と僕。(心霊写真を撮っているのではないですよ。)噂では水口小学校の生徒は、この未使用のヴォーリーズ建築物をお化け屋敷と呼んでいるそうで、僕がそのお化けの写真を撮りに来たと思ったのでしょうか。考えてみたらそうでしょうね。子供にヴォーリーズだって言っても分かりませんもの。何故残しているか。それはお化けがいるから壊せない・・・。勝手に中に入った僕が悪いのですけどね。この場でお詫びします。内部の見学ができず残念ですけど、住居目的で造られたわけではないために、実に機能的でシンプルそうなデザインだと感じました。窓の配置も採光を増やすために多いのかな。てっぺんのランタンが印象的なのは言うまでもありません。窓と扉の水色の塗装は塗り直しがあるとは想像しますが、時間の経過と共にいい味が出ています。旧くなるといい感じになるのがこの水色ですね。入り口の扉の両脇にトスカナ式の円柱とオリーブのレリーフが施されていて装飾も怠りありませんでした。何が良いかってこの入り口でしょう。国の登録有形文化財に指定されたのは良かったことです。

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垂井町 南宮大社

2013年09月13日 | 文化/歴史/技術
一宮巡りが面白くなってきて時間を見つけては諸国の一宮と言われる神社へ足を運んでいます。全国行脚をしてすべて参拝した猛者の話も面白いのですが、時間をかけても自分の足で出かけることに意義があるような気がして、僕はゆっくりと焦らず参拝をしています。美濃の国の一宮は垂井町にある南宮大社です。美濃の国とは岐阜県の美濃地方のことで、僕の住んでいるところからはそれほど遠くありません。国道21号線に参道がつながる場所にあり、名前の語源ともなった南宮山の山麓に位置します。車で滋賀県に出張したので帰り道立ち寄ったのですが、本当に国道から近くて驚いています。この道は何度往来したかわからないほど走っていたのに興味が無いときはその存在すら意識していませんでした。おかしなものです。もっと早く来るべきでした。赤い立派な楼門をくぐるとすぐ境内で中はよく整地されていました。中央の高舞殿が目に飛び込んできます。その奥が拝殿になっていて本殿は壁に囲まれてみることができません。どれも朱色に塗られ、大陸を思わせる建築様式で南宮造りと呼ばれているそうです。シンプルですが、奈良の春日大社、京都の下鴨神社などの影響もあるのかなと思いたくなります。鮮やかな配色を施したレリーフも随所に見られ、干支や何かの物語りの一場面のような絵が印象的です。どこか東照宮ぽいところでもあります。由緒も古く、伝説では崇神天皇時代に建立されたとか。建造物のほとんどが重要文化財に指定されています。今日は、休日でもなければ正月でもないので参拝客はあまりいないだろうと思っていました。だけどパラパラと人影があるかも知れないと期待もしていましたが、見事に誰もいませんでした・・・?いた!誰かいる。拝殿の隅で何やら手を合わせて動かない女性がいました。「参拝する人の邪魔になるので長い時間祈祷される方は中央を避けてお祈りください。」とか何とか言う注意の張り紙がありますけど、その通りにずっと祈祷を続けている様子です。隣で何かつぶやいているので気になってしかたがなく、参拝の手順を間違えてしまった僕です。最近多いんですよ。こうして長い間祈祷を続ける人。どういう人が何のためにどうやって祈りを捧げているのでしょう。さっぱりわかりません。これだけしっかりとした神社なのだから、地元の信仰は厚いのだろうと想像します。岐阜にこんないい神社があったなんてやっぱり驚異でした。

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