人形が心を持つこと。精神を持つというのではない。物質が心を持つということ、、。その反面、人間が心を捨てるということ。心を所有しないということ、、。
映画では全く同一のことだと言っているようだ。心を持ったダッチは映像では生きた【ペ・ドゥナ】になる。人間になる前の完全物質人形と映像で区分している。心を持つダッチは人間に他ならないのである。だからこそ、心を持つからこそ、苦しみが生じる。人を愛するようになる。執着が生まれる。欲望が発生する。
反対に、心を失いかけている人間は恐らく心がない暗黒状態の人形にあこがれている。心を必要としないのだ。だが不必要にも精神は存在している。ここが人間が人間をやめられないところだ。体の中は空気が充満していず、どす黒い血液が蔓延している。
【ARATA】と【ペ・ドゥナ】の関係はまさにそれである。ダッチから空気を抜くことはできても心は生き続けている。体は機能しなくても(死んでも)心は生き続ける。しかし、人間から空気を抜くことはできず、ダッチは同じだと錯覚し血液を抜くことをする。だが、人間だからなんだろうか、人間には死という最到達点が存在する。ダッチは恋人の死をもって人間の優位さを知ることになる。
ダッチは燃えないゴミとして処分されることで自分にある厄介な心を一掃しようとする。映画では【ペ・ドゥナ】の心の懊悩を描写しながら映像を終わらせる。粗大ゴミ置き場のダッチ人形の姿。【ペ・ドゥナ】が横たわっている。心を持ったままのダッチだということが分かる。心はいつ滅びるのだろう、、。
結局は人間も人形も燃える燃えないにかかわらず、ゴミのように処理されるだけなのだが、心を持ってしまった人形と、生まれた時からすでに心があり、心をなくした人間とではどちらが幸せなのでしょうか、、。心とは人間、人形をただ悩ませるだけのものなのか、、。考えさせられる映画です。
【是枝裕和】は前作『歩いても 歩いても』である程度の成功を収めてからまた本来の人間の「心の闇への探求」に戻ったようですね。デビュー作『幻の光』、秀作『ワンダフルライフ』の立脚点に戻ったような気がします。次回がとても楽しみになります。
映画では全く同一のことだと言っているようだ。心を持ったダッチは映像では生きた【ペ・ドゥナ】になる。人間になる前の完全物質人形と映像で区分している。心を持つダッチは人間に他ならないのである。だからこそ、心を持つからこそ、苦しみが生じる。人を愛するようになる。執着が生まれる。欲望が発生する。
反対に、心を失いかけている人間は恐らく心がない暗黒状態の人形にあこがれている。心を必要としないのだ。だが不必要にも精神は存在している。ここが人間が人間をやめられないところだ。体の中は空気が充満していず、どす黒い血液が蔓延している。
【ARATA】と【ペ・ドゥナ】の関係はまさにそれである。ダッチから空気を抜くことはできても心は生き続けている。体は機能しなくても(死んでも)心は生き続ける。しかし、人間から空気を抜くことはできず、ダッチは同じだと錯覚し血液を抜くことをする。だが、人間だからなんだろうか、人間には死という最到達点が存在する。ダッチは恋人の死をもって人間の優位さを知ることになる。
ダッチは燃えないゴミとして処分されることで自分にある厄介な心を一掃しようとする。映画では【ペ・ドゥナ】の心の懊悩を描写しながら映像を終わらせる。粗大ゴミ置き場のダッチ人形の姿。【ペ・ドゥナ】が横たわっている。心を持ったままのダッチだということが分かる。心はいつ滅びるのだろう、、。
結局は人間も人形も燃える燃えないにかかわらず、ゴミのように処理されるだけなのだが、心を持ってしまった人形と、生まれた時からすでに心があり、心をなくした人間とではどちらが幸せなのでしょうか、、。心とは人間、人形をただ悩ませるだけのものなのか、、。考えさせられる映画です。
【是枝裕和】は前作『歩いても 歩いても』である程度の成功を収めてからまた本来の人間の「心の闇への探求」に戻ったようですね。デビュー作『幻の光』、秀作『ワンダフルライフ』の立脚点に戻ったような気がします。次回がとても楽しみになります。
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