ヤングを対象にしていながら実にこれほど素朴で辛辣な問題提起映画が今まであったろうか、、。【瀬々敬久】の、柔そうで揺れないその人間を見る確かなまなざしは本物で脱帽ものだ。
人間の生と死を見つめる映画である。僕たち日常を生きる者にとって究極のテーマである。戦争のない時代においても僕たちは目の前にある平和を享受することができないでいる。例えばこの映画の主人公たる若い二人も日常的に執拗ないじめ、大人たちの身勝手に息を震わせている。
男は高校生時代にもはや疫病のようにはびこっているいじめにより一人のクラスメートを亡くし、さらにようやく逃げおおせたと思ったら自分に振りかかってくる恐怖にただ忍耐するのみ。まさにいじめは現代の疫病だ。加害者も心の闇にいるというところがやりきれない。
しかし、アルプスの登山の一事件により、いじめの真実はクラスメート全員が、いや担任でさえ加害者だったということ、それをみんな全く自覚しないことが原因だったということを露呈させる。現代人の中に隠れている悪意、これは昨年の『告白』を彷彿させる。
一方女は文化祭で遅くなったときに学校でレイプされるが、母親と相手の家に行っても「あなたが誘ったのではないか」とか、自分の母親から「なんであんな男に近づいたのか」とまで言われる始末。こういう状況下では誰だって人間不信になるだろう。
そして身ごもってしまうが、流産してしまったことに対して(命を授かったのに流産し、その結果として自分がのうのうと生きていることに対して)自責の念を持ち続けている。
そんな二人が邂逅したのが孤独死の部屋の後片付けの仕事だ。ウジははびこるは、沁みは畳にまで及び若者たちにもきつい仕事だが、彼らはこの仕事を通じて生きること、死ぬことの意味を考え続ける。(死ぬことはまさに人生の凝縮の瞬間であり、生きることの意味を厭でも考えるようになる。)
カメラは変に彼らに近づくことをせず等距離を取って彼らの中身に静かに入って行こうとする。彼らの心のほころびと渇きが徐々に癒されていく。
【瀬々敬久】は決して安易に感情的に走ることをしない。彼らのセリフもごく自然出簡素だ。日常的な会話に徹している。特に男は吃音気味なので言葉を選んでしゃべる。朴訥な会話に終始している。けれどこれこそ本当の人間の魂の叫びでもある。
途中、観客の中には二か所違和感を感じる人もいるだろう。まず唐突に女が男をホテルに誘って入ってしまうシーン。
けれど女は男性恐怖症に陥っていることもあるが、何より命の重さを感じ取りたかったのだ。ただ一回のセックスで身ごもった女が、自分の分身を亡くしたその重み。命の尊さを確認したかったのだと思う。
そしてもう一か所の違和感。それはラストで女を死なせることである。
僕は最初、ああ、何て類型的なお涙ちょうだい映画なのか、と一瞬思った。しかしこの映画は女は、死ぬことにより、観客に命のつながりを訴えることになる。一方では子供が死ななかったことにより、通常の人生を送れる親子がいる。
何より女が死ぬことにより男は、女から命のエールをもらうのだ。この映画の題名の意味が分かってくる。それは自殺したクラスメートのそれと同じであり、また女の胎児への命のエールでもあるのだ。
この映画、僕は最初から心を大きく広げて緩やかに息を吐きすべて受け止めるような気持ちでしっかり見ました。この映画を作ったスタッフたち、俳優たち、すべてこの映画に携わった人たちはすばらしい人たちだと思う。
こういう映画を商業映画館で上映できることに大いに喜びます。僕も映画を観終わってから何故か自分がすがすがしい気持になり、かなり心が洗われました。映画を見るという行為で、この映画に参加できたことをとても誇らしく思う自分がいます。
今年出色の秀作です。
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