Sightsong

自縄自縛日記

ジャック・デリダ『死を与える』 他者とは、応答とは

2011-01-15 13:50:12 | 思想・文学

バンコク行きの機内で、ジャック・デリダ『死を与える』(ちくま学芸文庫、原著1999年)を読む。

『創世記』において、アブラハムは神からの声により、息子のイサクを生贄として殺そうとする、死を贈与しようとする。理由を誰に告げることもなく、余りの理不尽さに苦しみながら。デリダが覗き、こじ開け、理不尽な声に応答してさらなる声を共鳴させるのは、この意味不明なブラックホールである。

他者と神の声、自身にのみ響く声を共有してはならない。これは他者への応答(response)と対をなす責任(responsibility)ではありえないし、神は他者ではない。この矛盾について、デリダは、責任の内奥には体内化された<秘儀>があるのだとする。すなわち、悔悛や犠牲や救済はこの非論理の矛盾から歴史として溢れ出ており、他者への裏切りと切り離せない。決して双方向ではない、根本的に非対称なキリスト教世界に関する洞察である。そして、その他者なる存在について、デリダの意識は無数の分子(ドゥルーズ/ガタリ)となって世界に浸透を図る。えぐるような浸透である。

「一言で言うならば、倫理は義務の名において犠牲にされなければならない。倫理的義務を、義務に基づいて、尊敬しないことが義務なのだ。ひとは倫理的に責任を持って振る舞うだけではなく、非倫理的で無責任にも振る舞わなければならない。そしてそれは義務の名において、無限の義務、絶対的な義務の名においてなのだ。(略) この名は、この場合まったく他なるものとしての神の名、神の名なき名にほかならない。」

「私は他の者を犠牲にすることなく、もう一方の者(あるいは<一者>)すなわち他者に応えることはできない。私が一方の者(すなわち他者)の前で責任を取るためには、他のすべての他者たち、倫理や政治の普遍性の前での責任をおろそかにしなければならない。そして私はこの犠牲をけっして正当化することはできず、そのことについてつねに沈黙していなければならないだろう。」

「あなたが何年ものあいだ毎日のように養っている一匹の猫のために世界のすべての猫たちを犠牲にすることをいったいどのように正当化できるだろう。あらゆる瞬間に他の猫たちが、そして他の人間たちが飢え死にしているというのに。」

さまざまな世界で呟きたいこの<他者>論は、例えば、「何千万もの子供(倫理や人権についての言説が異なる隣人たち)」、あるいは、無数の他者に向けられている。そして、他者の認識、他者への応答、そしてその根本矛盾というブラックホールに気付かぬ者たちに向けられている。これは宗教論であると同時に、現代戦争論でも現代政治論でもメディア論でもありうるものだ。

「・・・まったく他なるものとしての神は、何であれ他なるものがあるところにはどこにでもいるということである。そして私たちのひとりひとりと同じように、他者のひとりひとり、あらゆる他者はその絶対的な特異性において無限に異なるものである。近寄りがたく、孤独で、超越的で、非顕在的で、私の自我に対して根源的に現前しないような絶対的な特異性において無限に異なるものなのだ」

アブラハム「何も言おうとしないことを許してください・・・」、私とは他者とは何か、許しとは何か。この深淵を覗き込まない限り、世界は決して別の世界にはならない。

●参照 他者・・・
徐京植『ディアスポラ紀行』
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)
柄谷行人『探究Ⅰ』
柄谷行人『倫理21』 他者の認識、世界の認識、括弧、責任
高橋哲哉『戦後責任論』
戦争被害と相容れない国際政治


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