Sightsong

自縄自縛日記

今井正『ひめゆりの塔』

2011-10-09 04:15:08 | 沖縄

今井正『ひめゆりの塔』(1982年)を観る。今井正による自身の過去作品(1953年)のリメイク作である。脚本も水木洋子(市川市に多くの資料が寄贈されている)による同一のものであり、このようなパターンは稀なことに違いない(市川崑『犬神家の一族』もあった)。

舛田利雄『あゝひめゆりの塔』(1968年)に比べれば、雲泥の差と言っていいほど異なる作りだ。ひめゆり学徒の引率教師による体験記、仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』をもとにしているようで、やはり民謡以外が日本語であることの不自然さは仕方がないとしても、沖縄戦の実相をある程度反映したものとなっている。日本軍はガマから民間人を追い出し、怒りのあまり刀で斬りつけたりもする。そしてガマから出ていこうとする女学生を後ろから銃で撃ち殺す(それまで女学生に同情的だった井川比佐志にその役を与えているのが演出の妙か)。


『ひめゆりの塔を・・・』の表紙には映画のスチルが使われている

仲程昌徳『「ひめゆり」の読まれ方 : 映画「ひめゆりの塔」四本をめぐって』(琉球大学学術リポジトリ、2003年)においては、病院壕に置き去りにされる女学生の描かれ方に注目している。今井作品では、次のように、置いていく女学生に対し、教師が次のように食糧と自死のための青酸カリを与えるのである。

「きっと、迎えに来るから.・・・それまで待ってくれ・・・・食糧はかんめんぽうと缶詰が一個ずつ、ここにあるからね、若し、万一、敵がここへ来たら.・・・君も沖縄の女学生らしく・・・・覚悟をして。・・・この薬を・・・・」

この今井作品を含め、仲程論文では、壕置き去りは「「ひめゆり」の悲劇が雪崩を打っていく前兆としての一シーンとでもいえるものでしかなかった」とする。むしろ後の神山征二郎『ひめゆりの塔』(1995年)において描かれたように、実は米軍に救助されて病院に収容されていた女学生の言葉を入れたほうが、より苦い真実を伝え得たのだという解釈である。

「仲宗根は、病院から帰る道々こう思ったと書く。「敵として恨んだ米兵が、かえって教えを説いた先生よりも親切であった。渡嘉敷からしてみれば、壕にほうり捨てて去った先生や学友よりは、救ってくれた米兵のほうがありがたかったにちがいない。現実の結果としては、これが厳然たる事実である」と。」(仲程論文)

仲宗根「渡久地・・・・・・」
渡久地「せんせい・・・・・・」
仲宗根「・・・すまなかった」
渡久地「アメリカーに拾われました」
(神山作品)※名前は変えられている

>> 仲程昌徳『「ひめゆり」の読まれ方 : 映画「ひめゆりの塔」四本をめぐって』

参照
舛田利雄『あゝひめゆりの塔』
森口豁『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』
仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』、川満信一『カオスの貌』
『ひめゆり』 「人」という単位
大田昌秀講演会「戦争体験から沖縄のいま・未来を語る」(上江田千代さん)
沖縄「集団自決」問題(9) 教科書検定意見撤回を求める総決起集会(上江田千代さん)


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