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自縄自縛日記

森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』

2012-01-08 19:50:36 | 中国・台湾

森島守人『陰謀・暗殺・軍刀 ― 一外交官の回想 ―』(岩波新書、1950年)を読む。

著者は、外務省に入省後、1928年から39年まで中国と満洲において外交官を務めた人物である。まさに、関東軍による張作霖爆殺事件(1928年)、満洲事変(1931年)、満洲国建国(1932年)、盧溝橋事件(1937年)と、日本による中国侵略が加速した時期にあたる。一方日本国内では、若槻内閣での幣原外交が弱腰であると批判され、タカ派の田中内閣が発足(1927年)していた。そして、濱口、犬養といった都合の悪い首相は、軍や右翼のテロルによって排除された。そのような時代であった。

しかし、著者の回想によれば、実際には権力も単純な一枚岩ではなかったのだとわかる。関東軍の独走は、日本政府はもとより、必ずしも陸軍の意向を汲んだものではなかった。一方で、著者を含む領事は、その独走をなんとかとどめようとしていた。関東軍はブレーキをかけようとする日本領事館に対し、ほとんど銃剣をもって恫喝するような局面もあったようだ。

勿論ブレーキと言っても、それは、やり方の問題であり、いかに外交を通じて穏当に問題を解決しようとも、版図の拡大意図があったことに違いはない。経済的には、大豆の売却のみならず(張作霖がその利益により東北地方を支配していた)、製鉄、石油等への傾斜生産が日本にとって重要であった(小林英夫『<満洲>の歴史』に詳しい:>> リンク)。

本書によってさまざまな経緯を追っていくと、満洲事変などの重大事件が結果に過ぎなかったのだという印象を強く持つ。著者は、何度も「れば、たら」を挙げているのである。

○吉田茂(外交官時代)の構想のように、日本の資金援助によって張作霖を立てていれば、満洲事変を回避できたのではないか。
○逆に、状況次第では、張作霖爆殺事件のとき、あるいはその前に、満洲事変が起きていたのではないか。
大川周明張学良を扇動し(!)、張学良が政敵の楊宇霆を暗殺することがなかったなら、日本の外交が急激に過激化することはなかったのではないか。
○外務省が関東軍の独走をまともに把握していたら、関東軍を牽制しえたのではないか。
○盧溝橋事件の直後に日本政府が派兵しなければ、日中戦争に発展することはなかったのではないか。

そればかりではない。大隈内閣時代、袁世凱による帝政復活(1915年)の際にも、政府の承認のもと、満洲各地で「馬賊」を蜂起させ、満洲独立を実現させる計画があったのだという。まさに、歴史はどのように動くかわからない。

本書には、平頂山事件(1932年)(>> リンク)についての記述もある。本多勝一が『中国の旅』において指摘するより20年以上も前である。

「新聞掲載を禁止していたため公にはならなかったが、昭和七年の十月撫順でも目にあまる滿人婦女子の大虐殺事件があった。撫順警察から炭鑛の苦力が職場を棄てて集團的に引き揚げている、徒歩で線路づたいに華北へ向っているとの報告に接したので、眞相を取調べると、同地守備隊の一大尉が、匪賊を匿うたとの廉で、の婦女子を集めて機關銃で掃射鏖殺したとのことであった。」

●参照
菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』
入江曜子『溥儀』
ベルナルド・ベルトルッチ『ラストエンペラー』
田中絹代『流転の王妃』、『ラストエンペラーの妻 婉容』
小林英夫『<満洲>の歴史』
満州の妖怪どもが悪夢のあと 島田俊彦『関東軍』、小林英夫『満鉄調査部』
林真理子『RURIKO』
四方田犬彦・晏妮編『ポスト満洲映画論』
平頂山事件とは何だったのか
小林英夫『日中戦争』
盧溝橋
『チビ丸の北支従軍 支那事変』 プロパガンダ戦争アニメ


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