Sightsong

自縄自縛日記

大墻敦『春画と日本人』

2019-07-30 21:31:58 | アート・映画

大墻敦『春画と日本人』(2018年)。音楽を担当してピアノを弾いている矢部優子さんから招待券を頂戴して、試写会に行ってきた。(ありがとうございます。)

テーマは、2015年の「春画展」開催を巡ってのあれこれ。

本来は、2013-14年に大英博物館で「春画―日本美術の性のたのしみ」が開催されたのを受けて、日本でも巡回展を開こうとする動きがあった。しかしそれは簡単ではなかった。春画に対するタブーは、享保の改革以来300年にわたり存続している、根の深いものであった。

なるほど、いまは何でも手に入るような錯覚を持ってしまうけれど、確かにちょっと前までは猥褻物に対する取り締まりはとても厳しかった。1991年の『浮世絵秘蔵名品集』はそれまで隠されてきた春画(葛飾北斎、喜多川歌麿、鳥居清長、歌川国貞)を立派な図版で出すという画期的なもので、1冊20万円・合計80万円と高価にも関わらず、3千部が完売した。だがこの実現に関わった人たちは逮捕されるのではないかとヒヤヒヤだったのだという。「あの程度」の『愛のコリーダ』本裁判だって70年代であり、決して大昔のことではない。

映画で紹介される春画の数々は、引いてしまうほど生々しく、つい笑ってしまう仕掛けが施されてもいて、しかも美しいものでもある。現代の彫り師と刷り師が同様の春画を作ってみたが、それにより如何に技巧が優れていたかわかるほどのものだという。白眉は北斎の「蛸と海女」。どうしてもアンジェイ・ズラウスキー『ポゼッション』(1981年)におけるイザベル・アジャーニを思い出してしまうのだが、調べてみると、実際にズラウスキーはこの春画に影響を受けていたようだ。(早い。)

そしてタブーであったとは言っても、それは表だけのことだった。日露戦争以降、兵士が春画を戦場に持っていく習慣があった。画面に映し出されるそれは兵士と看護婦の交わり。なるほどこの妄想は現在までつながっている。

映画に登場する方が、昔は「嬥歌」(かがい)という性の相手を自由に選ぶことができる集まりがあって、日本はほんらい性に対して自由であったと発言している。もっともそれは沖縄の「毛遊び」だってそうだし、ヴェトナム最北端のサパにも最近まで同様の集まりがあった(都会人が興味本位で集まるから廃止されたと酒井俊さんに言ったところ驚いていた)。つまり自由さは古来の日本に限った話ではない。この精神的な解放が春画を通じて共感されるならば、それこそアートというべきだ。

音楽も注意して聴いていたこともあって面白かった。ピアノの矢部優子さんとヴァイオリンの池田陽子さんの音が、ちょっとユーモラスで、ちょっと時代にとらわれない感じで、それがまた春画のありようと重なるようだった。

●サウンドトラック録音風景(面白い)

recording1080 from Atsushi OGAKI on Vimeo.


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