那覇にユニークな万年筆店があるというので、足を運んだ。ゆいレール美栄橋駅から北西に歩いて行くと、上に「渡口万年ビル」と書いてあるビルがあった。1階の入口には、「渡口万年筆店」の看板。
ご主人はとても柔和で気さくな方。早速、いろいろと珍しいものを見せてくださった。
渡口万年筆店は1931年創立で、復帰前の1960年代までは「本土」の工場で万年筆を作っていた。お店に置いてあるもっとも古い万年筆は1960年製のもので、ペン軸には「TOGUCHI OKINAWA」の文字が彫ってあり、ペン先には渡口の「ト」印の刻印がある(その後、刻印は「T」になった)。14Kである。
もう少し後の時代の製品は、クリップがパーカーの矢の形になっている。
製造していた当時、本店が嘉手納にあり、支店が県庁前と名護にあった。店の広告が掲載された、昭和13年4月2日の「沖縄日報」を見せていただいた。確かに「ト」印時代であり、宣伝がまたふるっている。「”春の”万年筆大奉仕!」、「インキの出具合ペンの走り・・・・・・最も理想的に美しい文字がすらすらと書かれる」、「進入学の御祝にこれが一等 御買時は今!」といった具合に。
この新聞には、「”戦はん哉、時到る”/雪の大進軍/敵殲滅の激戦記」などと、戦争を翼賛する記事がある。ご主人の話は、沖縄戦の体験に移った。
米軍が上陸してきた1945年、6歳だった。名護の羽地に住んでおり、慌てて山に登った。直後に、麓は火の海になった。しばらく森の中に潜んでいたが、やがて米軍に発見され、捕虜になった―――と。ご主人は、自分のような生き証人がだんだん少なくなり、戦争の実状を知らないおかしな政治家が跋扈していることを懸念している、と語った。
沖縄で遺骨収集を続けておられる「ガマフヤー」という団体がある(>> リンク)。ご主人が見せてくださった別の記事(「琉球新報」2009年9月24日)は、ガマフヤーが見つけた遺骨の胸付近に、渡口万年筆製の万年筆があったというものだった。これも嘉手納本店時代らしい。
もう万年筆は製造しておらず、販売のみを手掛けている。しかし、お店には若干のデッドストックがあり、希望する人に売っているという。せっかくの機会なので、1本分けていただいた。
何本か書き心地を試していると、ご主人が、「あっ、こんな珍しいものがあった、これにしなさい」。何と、「0.85ドル」の値札がまだ付いている。箱も中袋もひたすら貴重だ。ペン先には「T」印の刻印がある。
インクの注入はスポイトで行う方式であり、ペンの尻がくるくると回って中に刺さっている棒が取り出せるものの、ただのインク押さえ。昔はねじの部分に固いポマードなんかを塗ってインク漏れを防いでいたという。現実的にいま使おうとすると、付けペンでしかありえない。もちろん、それでもいいのだ。
ついでにサービスだよ、と、別のタイプの万年筆をオマケにつけてくださった。独特のペン先の形で、キャップには「WHITE PEARL BRAND」とある。OEM製品だったということだ。
インクは中のビニールパイプを押してポンプのように注入する方式であり、驚いたことに、水で試してみると、まだ生きていた。「RIBBED BAR / TO FILL PRESS / FIRMLY 4 TIMES」と書いてある。しかし、この通りに使う度胸はわたしにはない。
さらに、別のオマケとして、2013年版の渡口万年筆の手帳。中には琉歌なんかが書いてある。もうひとつ、ちょっと古いパーカーのインク瓶。
お店には、極めて珍しい、ペン軸に名前を彫るための器械が置いてあった。何と現役。一方に手書きの文字を置き、それを手でなぞっていくと、縮小されてペン軸が削られていく方式である。最近使ったようで、紙には「那覇」と書いてある。米海兵隊員がやってきて、樺細工の万年筆を買い求め、首軸に「那覇」と書いてくれと頼んだのだということだった。
自分も彫ってほしかったが、生憎、手持ちの万年筆を宿に置いている。次の機会に、ぜひご主人お薦めの日本製万年筆を買い、名前を彫ってもらおうと思った。
領収書も立派
沖縄を去ってからほどなくして、ご主人からの暑中見舞が届いた。この古い万年筆を使って、返事を書かなければ・・・。
●参照
○万年筆のペンクリニック
○万年筆のペンクリニック(2)
○万年筆のペンクリニック(3)
○行定勲『クローズド・ノート』(万年筆映画)
○鉄ペン