なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ201 3.11の悲劇

2019年03月10日 04時55分58秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第201回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

3月10日、日曜日。

明日は3.11。
地震から4日後の3月15日、被災地で目に入ってきた光景に絶句したときの感情は今も胸にあります。
東北に住んで、どんなに寄り添おう、痛みを分かろうとしても、失ったものの大きさを考えれば、被災地の外ではしょせん「他人事」と言わざるを得ません。
改めて、巨大な災害でした。
地震の範囲は東北から関東にかけて広範囲で大きな揺れを観測しました。都心でも交通機関がマヒするなど混乱がありました。
そして大津波。
その範囲は、北海道の一部から関東の茨城、千葉まで及びました。「東日本」と命名された所以です。
気仙沼や山田町、大槌町では津波で流れた重油などに引火して火災も発生しました。海も町も空も真っ黒になりました。
地震だけで済んだなら、たとえ建物が全壊、半壊しても、すべてはその場に残されていました。
しかし津波は、生活の土台から根こそぎさらっていきました。
家、財産、思い出、仕事、そして家族、親戚、友人。
どれひとつも、かけがえのないものであったのに、無残にもすべてを奪っていきました。
その喪失感など、他人に分かり様がありません。8年で癒されるはずもありません。
それは一人一人の悲しみであり、被災者がどれほど多くてもその数で割って減るものではありません。

しかし、それでも、原発事故が起きなければ、悲劇がさらに深く重く長期化することもなかったでしょう。
原発事故が起きなければ、「復興」という言葉に、希望と意欲を見い出しただろうと思います。
地震と津波によって、家が壊れ、流された上に、鞭をもって追い立てられるように住む場所を追い出されてしまいました。
その状態は「難民」と変わりません。
しかも、追われた先で優しく受け入れられたわけではありません。
排除や差別。避難してきたその人に何か罪があるわけではないのに、「福島」を語れず隠れるように生活をしなければならない悲劇がありました。
人間ばかりではありません。愛犬や愛猫、家畜を置き去りにして逃げなければなりませんでした。
置き去りにされ息絶えた牛が、空腹のあまり畜舎の柱をかじっていた跡を見つけたときの飼い主の断腸の思い。

原発からの距離による補償で住民は分断され、心の段差を生んでしまいました。
家族も分断されました。先祖代々の土地と家を守りたい世代と子どもの健康を第一に考える世代と、それは決して矛盾しないはずなのに、一緒に暮らせなくなってしまいました。
放射線を浴びてしまった人々、特に子どもたちは、将来自分の身にどのようなことが起きるのか、不安を抱えながら生きていかなければなりません。子どもを持てるのか、結婚できるのかという不安もあります。
地震と津波は天災ですが、原発は事故であり大方人災です。事故を起こした原発では、今現在も更なる事故を起こさないための処理作業が続けられています。それは今後何十年続くか分からない作業です。
事故直後の状態は、この国の半分が人が住めない場所になるかどうか瀬戸際の極限的危機にありました。
それを守ったのは、命がけで、いや実際に自らの命を犠牲にして現場に突入した作業員たちでした。名も知らぬ彼らに、国民全員が感謝してもし尽くせないはずなのに、顕彰されることもありません。

最小限の被害、そう言われると、被害に遭った人々の悲劇はより際立ってしまいます。
事故が起こった年、原発の専門家が講演で言いました「今回は福島でラッキーでした」。
「風向きで、これが福井であったら東京は全滅」という脈略でしたが、「ラッキーって、お前な!」と腹が立って仕方ありませんでした。
東北は、いまだに搾取され利用されるだけの地なのか。
原発は、一度事故を起こしてしまうと原爆と変わらないのだということを実証してしまいました。
なのに学ばないのはよっぽどのバカなのかと思います。
オリンピックや万博のお祭り騒ぎは、被害者を忘れてもいい免罪符となりそうです。
1000年に一度とも言われた大災害を、10年も経たずになかったかのように記憶から捨て去るのは、悲劇から学ぼうとしない怠慢としか言いようがありません。で、同じことを繰り返してしまうのでしょう。

我々は、この大震災と同じ時代に生きています。
それは、一人一人がその痛みを共有し、それを教訓として、この国の方向性を正すための使命と責任を突き付けられたことなのだと受けとめましょう。悲劇を悲劇のままにしてはなりません。
ああ、亡くなられた人々よ、今現在も苦しみの中にいる人々よ、皆様の犠牲は決して無駄にしません。自分の生涯の課題として向き合っていきます。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。