なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ477 邯鄲(かんたん)の夢

2024年07月28日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第477回。令和6年7月28日、日曜日。

 

25日から26日にかけて当地に特別大雨警報が発令されました。

全国ニュースでもトップに取り上げられ、各地から安否を気遣う連絡をいただきました。

26日朝の段階で、国道47号線が町の西端で土砂崩れによる通行止め、南方の尾花沢、村山方面に抜ける山刀伐峠も土砂崩れにより通行止め、新庄ー鳴子温泉を結ぶ陸羽東線も不通になりました。

唯一東側の宮城県に抜ける国道は通じていましたが、半孤立状態となり、物流はストップしました。新聞が来ません。通勤の人が来られないので銀行が臨時休業、町立病院の数科も、スーパーも臨時休業し、開いているドラッグストアに食料品を求めて客が殺到していました。

JRの運転は平常に戻り尾花沢方面の道路も通行止めが解除されましたが、新庄方面の国道47号は未だ通行止めです。

昨日27日戸沢村古口と鮭川村を見てきました。

道路があちこちで寸断され、目的地に行くまでに何度も何度も迂回して迷路のようでした。

外からの支援のためには道路の復旧が第一なので、時間との勝負になってくるでしょう。

昨日私は行けませんでしたが青年僧侶数名が、最も被害の大きい蔵岡地区に入ったようです。

集落の戸数約100戸のほぼ100%が床上浸水。2階まで浸水した家屋も何割かあったようで、片づける気力もなく呆然としている様子だったとのこと。

それでも前に進まなければならないので、傍に寄り添うことが必要だと思います。

当地は災害がなくていいところだと年寄りはよく口にしていましたが、全国そんなところはないのでしょう。

もう異常気象などとは呼べません。これが平年通りだと受け止めなければなりません。それが温暖化です。

 

70歳になんなんとしている自分を客観的に観て、人生とはあっという間だと感じています。

その時その時はそう感じなくても、これまでを振りかえり押しなべて観察してみると、「邯鄲の夢」の如く実にあっという間のことだったと思えます。

更にこれからどれほど生きるのか分かりませんが、最期の瞬間に感じる思いもおそらく同じようであろうと、あるいはもっと短い時間に感じるのかもしれないと思われます。

その時は、現在の人のつながりリアルな人間関係ばかりでなく、ネット上のつながりや会ったこともないけれど心を通わせている人との関係も全て手放すことになります。

頭の中に残っている今は亡き人々との思い出も、映像としての記憶も、全て消え果ててしまいます。

ましてやお金や私の物と認識している私物も一切合切持ち主を失って抜け殻のように色褪せてしまうことでしょう。

しかしそれは、私がいなくなってからではなく今現在も、我が物という所有物はないのだと分からなければならないことです。

所有しているという思い込みが勘違いなのであり、その勘違いが自分自身を縛り、苦しめている原因だと知らなければなりません。

物ばかりではなく、人とのつながりも自分自身の身体、命も、自己所有物ではありません。

自分の所有物でもないこの身体を私たちは自分のもののように勝手に使っているに過ぎません。

誰も自分の思い通りにはならないように、自分自身も自分の思い通りにはなりません。

ならないものをならせようとすることが苦しみの原因なのです。

そのことに気づき、所有意識を手放すこと、解放すること、それが解脱です。真の自由というものです。

さはさでありながら、人とのつながりが消えてしまうことの寂しさは禁じ得ません。

お金や物が消えてなくなるのはさほど惜しくも感じませんが、語り合い笑い合う人との時間が失われるのはとても残念に感じます。

でもそれは、自分一人の一瞬の断ち切りであり、世界として何も変わることはありません。いわば未練でしかありません。

その時を待たなくとも、所有意識を少しづつ剝ぎ取っていくことができればと思います。

 

今週の一言

「所有から自由であれ」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ476 人間はバカなのか

2024年07月21日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第476回。令和6年7月21日、日曜日。

 

先週は予定表がブランクの日が何日かあって、晴れていれば外の作業を、雨ならば机上の作業か読まなければならない本を読めると思っていましたが、風邪をひいてしまったようです。

くしゃみ、鼻水が止まらず頭がボーっとして、ほぼ横になっていました。

風邪薬のためもあるでしょうが、朝も起きられず暁天朝課も散歩も休んで、何と12時間ほど寝ていました。

鼻づまりで困るのはCPAP(シーパップ)です。

睡眠時無呼吸症候群の治療器ですが、鼻から強制的に空気を送り鼻呼吸をさせるものです。

これがないと、口呼吸をしていびきをかき、舌が気道を塞ぎ無呼吸となります。

睡眠時に脳に酸素が十分に供給されず、様々な機能障害や死亡のリスクが高まるという症状です。

CPAPを使用して10年以上も経ちますが、車の運転中に眠くなるということはほとんどなくなりました。

ただ最近、法事のお経を読みながら眠くなることは度々あります。

鼻づまり状態でCPAPを使用すると、当然空気が入りづらく息苦しくなります。

外すと口呼吸になりますが、しばらく口呼吸の睡眠をしていないためかうまくできません。

何度も着けたり外したりを繰り返して夜を過ごしていました。

CPAPの大敵は鼻づまりだと気づきました。

昨日からほぼ平常に戻りましたので他事ながらご休心ください。

 

この世界はどこに向かおうとしているのかと時折不安に駆られます。

温暖化による気候危機。世界各地で起こる異常気象、自然災害。

その原因は人間による温室効果ガスであることは明らかなのに、その対策も焼け石に水のようなもの。

何かをやっている「ふり」が多く、温暖化を止めるには至らないだろうと絶望的になります。

そればかりか、戦争などは二酸化炭素の垂れ流し放題で、片方でチマチマ対策を実施しても、その分の効果を一瞬にして消し去ってしまう逆効果に違いありません。

今戦争状態にない国にしても、着々と戦争の準備を進めているように見え、偶発的な小競り合いから本当の戦争、更には世界大戦に至らないとも限らない危機を感じます。

全ては人間の所業ですが、その中でも国のトップの思惑で戦争は始まってしまうという状況を我々は目撃しているように思います。

 

癌は体内に発生しやがてその宿主である体全体を滅ぼしてしまいます。

この地球上の生物にとって人間はいわゆる癌細胞なのでしょうか。

そのことに危機を感じた地球が癌細胞たる人間を排除しようという、これが地球の自己防衛的な意志、免疫作用ならば、人間は甘んじて消滅するしかないのかもしれません。

しかし人間は何と愚かなものかと思わざるを得ません。ほんの一握りの人間の愚かさかもしれませんが、結局その一握りの人間に翻弄され、犠牲になり、人類全体が危機に追いやられるのですから何とも情けないことです。

結局政治家というものは、大統領から田舎の首長まで、自分の名誉と権力のために民衆を利用しているに過ぎないと思ってしまいます。

でも、そうさせているのは民衆ですから民衆に責任がないとは言えません。

想像してみてください、この空から爆弾が降ってくることを、ミサイルが飛んでくることを。

それが今現実にこの世界で起こっている事実です。

それを他人事と傍観することによって自分にもそれが近づいてくるのではないか。

抑止のための軍備などと言いますが、それは「矛盾」の語源の盾と矛のように、矛盾した考えです。

その延長線上に「核抑止」のために「核保有」するようなことになりはしないかと危惧します。唯一の被爆国であるこの国が。

何と愚かなことか。

 

今週の一言

「愚かさの連鎖を止めるのは誰か」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 


サンデーサンライズ475 身を施す

2024年07月14日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第475回。令和6年7月14日、日曜日。

 

先週の続き。

考えてみれば、老齢者というのは若者に身を奉げる献体のようなものではないかと思い至りました。

以前青森の和尚さんがこんな話をされました。

師匠、父親を自宅で看取った。

今際の際に父親は自分を枕辺に呼んで、息絶え絶えにこう言った。

「看病は、慈悲の、徳を、養う、最大の、修行なり」と。

お前はよく看病してくれた、これは慈悲の徳を養うお前の修行だった。

そのために、私はこの身を提供してきたのだ。ということだろう。

 

私もわずかばかり父親の介護のまねごとをさせていただいた。

父が、要介護状態にならず、元気なままコロリと逝ってしまっていたら今頃どんなに後悔していただろうかと思う。

「父親は敵だ」とばかり思って、体に触るどころかまともに声もかけずに過ごしてきた。

パーキンソン症候群になり、次第に体が思うように動かせず、介助が必要となった。

仕方なく、小学生の時以来に体に触れ、抱き上げたり、座らせたり、トイレでお尻を拭いたり、風呂で背中を流したりさせてもらった。

親孝行とまではいかなくとも、わずかばかり世話をさせてもらったことで自分なりにやったと、自分を許せることができている。

もしかしたら父親は、死んでから息子が後悔して自分を責めないようにと、あえて病気になってくれたのではないかとさえ思う。

 

そのように、老人が身を晒し身を委ねるのは若い者に慈悲心を養わさせるための捨身施なのだろうと受け止めます。

なので「若い者に迷惑はかけたくない」と思うのは間違いです。

多少苦労はしても、苦労から学ぶことはたくさんあるのだし、苦労しないことが幸せだとも言えません。

だいたいにして、親の介護や看病を迷惑だと思わせるような社会はおかしい。

親の世話を人任せにしてしまって後悔している人もいるのではないですか。

わざわざ望んで介護状態になる必要もありませんが、たとえなったとしても、それは若い者に我が身を提供しているんだ、この体を使ってどうか徳を養ってくれよと、思ってみたらどうでしょう。

若い者もきっと後から、よくやったと自分を褒め、許し、楽に呼吸ができ、自信を感じることにもなるでしょう。

お世話させていただいたことを感謝するに違いないと私は経験上思います。

 

さて、本日から大相撲名古屋場所です。

佐渡が嶽部屋の琴櫻は大関3場所目となります。

優勝、横綱への足掛かり、と期待が膨らみますが果たしてどうでしょうか。

ファンには申し訳ないですが、私は若干懐疑的です。

体も大きい、柔らかさもある、技もある、しかし優勝、横綱にはそれだけでは足りないと思っています。

相撲はいわば格闘技です。

その中で勝ち上がっていくには、強い気持ちが不可欠です。

琴櫻は父親似で性格が優しい。

立ち合いの最後の塩で鬼のような形相をするのも弱い心の表れで、自分を奮い立たせているのでしょうが、あんなことをしたらかえって体にいらぬ力が入って自然体でとれないでしょう。

体が自然に反応するためには意識がどこかに集中していてはダメです。

心の重心を下げて腹の座った相撲をとればいいのにと思うところです。

あの顔をやめれば自然に勝てるようになるかもしれません。

ですからむしろ、私は琴櫻には、勝っても負けても相撲ファンに愛される心の優しい人格者の大関として長く務めてもらいたいと願っています。

たとえ横綱にならなくてもです。

そうは言っても、観ている方は力が入るんですよね。

私の予想など大外れであることを心のどこかで祈りながら。

 

今週の一言。

「勝つことだけが相撲じゃない」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ475 老いの自覚

2024年07月07日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第474回。令和6年7月7日、日曜日。

 

日曜日から金曜日まで東京でした。

令和6年度曹洞宗布教師養成所の第1回目。

合計50名の若き僧が布教師の勉強のために年3回集います。

今年度年間テーマに掲げたのは、「法が良薬ならば」。

「我は良医の病を知って薬を説くがごとし」と『遺教経』にあります。

仏法、仏の教えは衆生を苦悩から救う「良薬」だとしています。

であるならば、現代社会の苦悩に対して、仏教はどんな救いー薬を処方することができるのか。

苦悩には数々の種類があります。

それを以下の3つの種別に分類しました。

①根本苦ースピリチャル・ペイン 

 生老病死に代表される人間が生きている限り離れることのできない根本的な苦悩。

②社会苦ーソーシャル・ペイン

 社会的な問題に起因する苦悩。人権、差別、貧困、いじめ、戦争、災害、LGBTQ、DV、などなど。

時代によってその種類は広がりまた増え続けています。

③生きがい苦ーライフプラン・ペイン

 価値観の多様化が進む現代社会の「生きがい」の模索。

やりたいことが見つからない、生きづらさ、ひきこもり、自殺願望、存在感の喪失、仕事上の悩み、生きがいの喪失、引退後の人生。などなど。

それらの苦悩の中にいる人々に向き合い、寄り添い、語りかける言葉として、どんな教えが有効なのか。それを学ぼうとしています。

 

第1回目の今回は、生老病死の苦悩に寄り添い、その痛みに対する法の処方箋を互いに出し合って学びました。

テーマの関係で、数々の別れの例話が出てきました。多くの死の場面に立ち会ったような感じです。

悲しみに出会うほど自らの慈悲心を呼び戻すことができるでしょう。

その場合自分だったらどんな話ができるだろうかと考えながら学びます。

朝の5時30分から夜9時まで、坐禅、朝課の後はひたすら人の話に耳を傾け講評用紙を記入する時間です。

それだけでかなりの頭の重労働ですが、テーマがテーマだけに心も疲れた感じです。

 

東京からの帰り、鳴子温泉駅で、キャリーケースを持ってホームの跨線橋の階段を登ろうとしたら後ろから「荷物持ちましょうか」と声がしました。

振り向くと、高校生と思しき笑顔のさわやかな青年でした。

とっさに「大丈夫、ありがとう。」と答えました。

遠慮したのか強がりだったのか。

今までそんな経験はないので単に驚いたのかもしれません。

そんなに辛そうに見えたのか、いたわってあげなければならないと思わせる年齢に見えたのか。

確かに世間的には高齢者と呼ばれる年齢ではある。疲れているようにも見えたでしょう。実際に疲れていました。

それにしても、そうなのか、と老いを自覚せざるを得ない出来事でした。

しかし、彼の、善行を積む功徳を奪ってしまったかと後悔しました。

次からは、老いの自覚のもとに力を借りたいと思います。

ああ、あのさわやかな笑顔。いいなあ、若いって。

 

今週の一言。

「若いってすばらしい!」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ474 出会いは必然

2024年06月30日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第474回。令和6年6月30日、日曜日。

 

今年も早や半年が過ぎようとしています。

私の最も業務多端な季節の一山も間もなく終わります。何とか体力ももちそうです。

後は11月までのんびりした日々が送れそうです。

『獺祭』は酒の名前で有名になりましたが、その意味をご存じの方も多いと思います。

獺(カワウソ)は獲った魚を岸に並べる習性があって、それがお供えしているように見えることからその名前が生まれ、詩人や学者が枕元に書物を並べている様子を「獺祭」と呼ぶようになりました。

正岡子規も自らの号の一つとして使っていたようです。

今私の机もしばらく前から獺祭状態で、明日から始まる布教師養成所の準備で参考の書物を積み上げていました。

付け焼刃は否めませんが、少しでも切れ味を良くしようとあれもこれもと渉猟してきました。

 

それとは関係なく、新聞の書評を見て思わず買ってしまった本もあります。

木村聡著『満腹の惑星 誰が飯にありつけるのか』(弦書房)。

難民キャンプ、内戦の国、ゴミの町、世界各地の問題を抱える場所で、現地の人々と同じ「ご馳走」を食べてきたフードドキュメンタリー。

「空腹と満腹の間を漂い、胃袋で発見する未知の天体の数々」。

「おふくろの味」についてこんな記述がありました。

「生まれたばかりの無垢は100%他人から与えられる食に依存しなければならない。その食の提供者であり、最大の庇護者である”おふくろ”の存在は命を保つ前提であり、”おふくろ”に食べさせられるものからは無条件に安心、安堵していいというメッセージを受け取っている、はずだ。だから無垢たちはその味を心地よい=「美味い」と認識し、成長し、今度はその”おふくろの味”によって刷り込まれた「美味い」を使って、脳と舌は知りうる安全な食にありつこうとする。人は生きるために「美味い」を追い求める。」

なるほど、「美味い」は安全に命を保つためのリトマス試験紙だったのだ。

それだけを知れば、あえて食の冒険をしなくてもいいと知りました。

 

もう一つ、布教師の先輩から「この本読んだか」と尋ねられ、まだと答えるとすぐに送ってくれました。

南直哉著『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)。

実に面白い。

『正法眼蔵全新講』はなかなか読み進みませんがこういうのであればすぐに読めますね。

「仏教が手を伸ばそうとするのは、苦しくて切なくて悲しい思いをしている人たちで、その人たちのためだけに、仏教はある」。

「ためだけにある」とズバッと言い切られると気持ちがいいですね。

私が今年度布教師養成所で学ぼうとしていることもそれに近く、「この混沌とした社会に仏教は役に立つのか」を学びのテーマにしています。

さっさと読んで片付ければいいのですが途中で次のに手を伸ばすものだから、読み止し読み止しで獺祭の魚はまた一つ積み上がるのでした。

 

何度か経験していることですが、「そうかこの本を読もうと思ったのは今の自分に必要だからだったんだ」と感じることがあります。

本ばかりではなく、出会う人、出会う言葉、情報、あるいは出来事など、今の自分に足りないもの、それが必要だからこその出会いだったんだという気づきです。

そう考えれば、その時の出会いは必然だったと受け止めることができます。

以前自然農法の本で「土は植物や土の中の生物が死ぬことでできる、その土壌に足りない養分を補うために必要な草が生えて土壌を調える、自然はそのようにできている」というような記述を読んだ記憶があります。

うれしい出会いもうれしくない出会いも、今の自分のために必要だったからとすれば、全ての出会いをありがたく受け止めることができるでしょう。

今その時にはそのように受け止めることができなくとも、やがて振返ってみてそうだったと考えることもできるかもしれません。

あるいは、そう受け止められるような生き方をする以外にないということかもしれません。

ですから、全てを縁に任せて、求めなくてもやって来る出会いに真っすぐ向き合えばいいのだと思います。

それは、あなたに必要なことなのです。

 

今週の一言。

「それは必要だからだ」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 


サンデーサンライズ473 参不得

2024年06月23日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第473回。令和6年6月23日、日曜日。

 

隣のアスパラ畑の先に熊が出たようです。

黒い動くものが現れて、猪でもないし、歩き方から犬でも猫でもない、よく見たら熊だったと。

山から線路を越えて来たのでしょう。

そこは私の朝の散歩道です。

次の日からアスパラ畑では熊除けの鈴が鳴っています。

他人事ではなくなりました。

 

19・20日、旧友に誘われて千葉県君津の師のもとへ。

思えば初めて師のところへ訪ねて行ったのも彼と二人で、今から36年前のことになると思います。

以来、羅針盤の点検のように時折訪ねては進路確認をしてきました。

ちょうど一回り12年上の師は、年々体の衰えが見え、視力も虫眼鏡でようやく字が読める程度に落ちてきています。

それでも懐かしい顔が揃ったということで心から喜んでくれ、「私にも注がせてくれよ」と酒瓶を持ってお猪口に酌をしてくれました。

「見えなくても座頭市のように酒はちゃんと注げるんだよ」と嬉しそうに。

そして、和尚としての生きる姿勢について、いつものように熱く、時に「バカたれが」と叱りながら語ってくれるのでした。

「これが最後になるかもしれない」と思いながら毎回一言一句漏らさないよう聞き耳を立て心に刻んできます。

その薫りに包まれ、少しばかり身に沁み込ませて帰ってくると、しばらくは穏やかな幸せに包まれます。

 

光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし、師はあれども、われ参不得なるうらみあり。参ぜんとするに、師不得なるかなしみあり。(『正法眼蔵行持』)

 

混雑する東京駅で、行きかう人々を眺めていました。

この大勢の人々それぞれにその人の歴史、太古からの連綿たる命の流れ、そしてそれぞれに幾多の人のつながりがあるんだなとしみじみと眺めていました。

みんな何も気づかずにすれ違っているけれど、もしかしたら先祖のどこかでこの中の誰かと誰かがつながっているかもしれないし、この時にすれ違ったことでやがて次の人生に何らかの影響を及ぼさないとも限りません。

命のありようがジグソーパズルのようであれば、この中の誰一人かけてもパズルは完成しないわけで、お互いがお互いの足りないところを埋め合いながら存在しているのです。

一つも足りないピースはなく、一つも余るピースはありません。しかも境もない溶け合った一枚の動画です。

人の少ない田舎では感じることのできない、混沌としたような人の波だからこそ感じる心象でした。

 

その帰りの新幹線の中で、ばったりと檀家のご夫妻と出会いました。

亡くなった分家の葬儀に向かうところでした。

19日、出かける直前に不幸の連絡が入り、枕経を勤めてから千葉へ向かったのでした。

亡くなったのは私の二つ上、同じ中学校で野球部の先輩でした。

私がこの寺に帰って来てから、いろんな場面で一緒になりました。

東日本震災の支援も連携して行いました。

寺の役員をお願いして務めてもらいました。

集中講座の実行委員長を務めてもらいました。

最上の地酒を創る会の副代表でもありました。

何度も共に夢を語り、共に酒を酌み交わし、共に呵々大笑しました。

体調が悪いと聞いてからあっという間のことでした。

戒名は、禅語「明歴々露堂々」から「明歴正堂居士」とし、昨日涙と共にお見送りしました。

正さん、お世話になりました。ありがとうございました。

 

今週の一言。

身命は露よりももろし」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 


サンデーサンライズ472 広島で何食った

2024年06月16日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第472回。令和6年6月16日、日曜日。

 

12日、東北管区教化センター資料作成委員会の会議で仙台泊。

懇親会の後、外に飲みに出る力は残っていませんでした。体力が落ちています。

 

今日は広島、呉に来ています。

昨日の夜、神応院さんの仏教講話会に呼ばれてのことです。

コロナで3年休みましたが、18年ほど前から毎年呼んでいただいています。

今は「四無量心」の話を5回にわたって話し、今回が最終話でした。

過去のレジュメを繰ってみると、挿入に同じような話が出てきます。

一人の人間に経験談や知識が無尽蔵にあるわけではなく、回数を重ねれば同じような話になるのは仕方のないことです。

それを怖れることはありません。聞法者も全てを正確に記憶している訳でもないでしょうし、繰り返し聴くことで話者が大事に思っていることが伝わるということもあるでしょう。

例えば、「親父から何度も聞かされた」というような話は、親父という人間性、信条が分かる事象であり、その理念が家族子孫に伝えられていくことにもなるでしょう。

繰り返すことで心に染みてくる、それ自体に意味があるものと言えます。

母が元気だったころ、帰る度に決まって「広島で何うまいもの食ってきた?」と聞かれるのでしたが、どこかで食事ということはなく、お寺で手作りの夕食と終わってからの懇親でこちらも手作りの料理をご馳走になるのが常でした。

それはどれもおいしくいただいて来ましたが、母親の聞くような広島だからといっていわゆる名物のお好み焼きだとか牡蠣だとかを食べることはありませんでした。

それに対して私は「観光しに行っている訳じゃない」とつっけんどんに答えていましたが、母親が聞きたいのは食べ物ではなく、「あんなことがあった、こんなことがあった」という話を聞きたかったのでしょう。

どこに行って帰って来ても何か話すわけでもなく憮然としているだけなので、話の糸口として食べ物のことを聞く以外になかったのだと今は思います。

まことに、親を喜ばせることのできない息子でした。いや、何を求めているのかは気づいていたと思います。しかしそれに応えることが億劫というか、面倒くさいというか、甘えていたのだという以外にありません。

ひとは、その心が分かるのはいつも亡くなってからばかりですね。

 

『なぜヒトだけが老いるのか』という本を興味深く読みました。

生物学者小林武彦の『生物はなぜ死ぬのか』の続編のような著書です。

『なぜ死ぬのか』では、生物は「変化と選択」によってたまたま環境に適応したものだけが命をつないできた、という説明でしたが、『老いるのか』では、ヒトだけが獲得した「老後」の意味について語っています。

かいつまんで言うと、ほとんどの生物は生殖能力がなくなると死ぬ。いわゆるポックリと。なので「老いる」という期間はない。

ではなぜヒトだけが「長い老後」を獲得したのか。

ここにも「変化と選択」という仕組みがあるというのです。

ヒトが二足歩行を始めてから、産道が狭くなり未熟児のまま産むことを選択した。すると子育てをするとき、一人では手がかかり次の子どもを産むまでに時間が必要だった。

そこにその母親、おばあちゃんがいた場合子育てに手を借りられて子どもを産みやすくなった。

そのようにして多くの子どもを産むことができたヒトが多く生き残ってきた、おばあちゃんの存在が有効であり寿命が延びた。という仮説です。

ではおじいちゃんはどうか。

ヒトは一人では生きられない。集団で社会を形成して生きている、というのが前提です。

その社会においては、様々な問題が起こった時の対処法として、豊富な経験と智慧を持った存在がいる社会が問題解決に有効で永続できた。

つまり、子育てに関わりはしないけれど、社会をまとめる「知識」としての存在がおじいさんの存在意義だった、というのです。

そして、85歳を過ぎたあたりから、欲が支配する世界から超越した「老年的超越」という心理状態になるというのです。

おもしろいですね。

その他さまざまな示唆に富む好著でした。二冊合わせて読むことをお勧めします。

 

今週の一言。

「老いには意味がある」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 

 


サンデーサンライズ471 頑張れ体

2024年06月09日 05時05分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第471回。令和6年6月9日、日曜日。

 

先週の集中講座は大変楽しく過ごしました。

泣いて笑ってうなづいて、命の洗濯ができたと思います。

来場者も喜んで帰られたことが、その表情から読み取れました。

打ち上げもいつものことながら、乾杯からMAXの盛り上がりで、65名が爆発したようでした。

来場者には申し訳ないことですが、ある意味打ち上げのために講座をやっているようなもので、これがなければここまで続けてこられませんでした。

興奮冷めやらぬまま、徐々にクールダウンしながら次の日程へ進んで行きます。

 

5~6日は、永平寺布教師会孝順会に呼ばれて松島で講演でした。

大御所の先輩布教師方の前で、震災支援の経験などを話させていただきました。

終ってからの懇親会は布教師会だけあってみんなよくしゃべり、聞いている人がいるのかと首をかしげるほどでした。

松島は観光客も大勢いて、どこも賑わっているんだなと改めて感じました。

ホテルの露天風呂からは松島の島影と波間に浮かぶ白い船が見えて、芭蕉ならずとも訪れてみたくなる景観であることは間違いありません。

ただ、そぞろ歩く観光客からも露天風呂は見えて、こちらは景観がよろしくないことでした。

立ち上がるのは控えたいと思いました。

 

そして昨日は松林寺の大般若会と護持会総会。年に一度の檀家の祭りのようなものです。

100名近くが来場、敬虔に祈禱法会に手を合わせていました。

終って午後からと本日は、教区内寺院の本堂落慶、晋山結制、退董式が挙行されます。

日程がかぶってしまいどうかと相談しましたが、連続してできないことでもなさそうなのでそのままやることにしました。

なかなかハードな日程で、何とかこなすことはできるのですが体がついてきているかが気にかかります。

少し心配な検査結果も出てきています。

更に7月第1週まで予定がいっぱい入っていて、何とかもってくれこの体、と祈っています。

 

ということで、今週は短めですがここまでとします。

また来週お立ち寄りください。

 

 

 


サンデーサンライズ470 家庭内の平和

2024年06月02日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第470回。令和6年6月2日、日曜日。

 

マザーテレサに次のような言葉があります。

「自分の家庭の外で人々にほほえむことはたやすいことです。

あまりよく知らない人をお世話することは、実はとてもやさしいことなのです。

あなたの家の中で毎日会っている家族を、

思いやりをもって、やさしく、ほほえみを忘れずに愛し続けることはとても難しいことです。」

実にそう思いますね。

他人に対しては遠慮もあり、よく見られたいという欲もあり、関係をこじらせたくないという配慮も働いて、ほほえみを以てやさしく接する。

あまりよく知らないからこそ、その場限りの大人の接し方ができる。

なのに身内に対しては、遠慮なく素の自分が出てしまう。

いい面もあるのに嫌な面ばかりが心に残っているから素直にやさしくも親切にもできない。

甘えているのでしょうね。

そしてそれがストレスにもなる。

他の人は自分の思い通りにはならないなど百も承知でありながら、身内に対しては思い通りにならないことにイラッと感じてしまう。そうではないですか。

考えてみれば、自分自身も自分の思い通りになりません。

こんなこともう止めようと思いながら、その側からまた手を出してしまう。

自分のことも自分で思い通りにならないのに、身内には「何故私の言っていることが分からないのだ」と怒ってしまったりもするでしょう。ねえ。

自分も自分の思い通りにならないように、相手も自分の思い通りにならないと思っているに違いない。

だとすれば、「そうだよねえ」と許してしまった方がストレスにはならないですね。

できないところばかりではなく、それ以上にいい点もあるはず。

なのに、なかなかいい点は見えづらく、欠点ばかりが気にかかってしまう。

それも身内だからですね。

本当に「家の中で毎日会っている家族を、思いやりをもって、やさしく、ほほえみを忘れずに愛し続けることはとても難しいこと」なのです。

マザーテレサはこうも言っています。

「平和も戦争も家庭から始まります。もし本当に世界平和を願っているなら、まず自分の家が相互に愛し合うことから始めていきましょう。」

世界の平和は家庭から。

自分の家庭が平和にならない限り、世界の平和はなり得ないのです。

さらに仏教は、平和は一人ひとりの心の平和からと教えています。

それが「シャンティ」の意味です。

「平和」とも訳しますが「寂静」の意味が強いようです。

ひとりひとりの心が寂静、静かで穏やかであれば、争いが生ずることはなく、その心が広まれば世界は平和になるだろうというアプローチが仏教的平和の捉え方です。

 

本日は集中講座の当日です。

昨日までに大まかな下準備は終了し、本日はそれぞれの担当スタッフに委ねます。

この講座の収支は私が管理しています。

16回目ですが途中コロナで3年間休んだので19年前、私が他所の法話や講演などでいただいた謝金を収入に補填して営むという計画でスタートしたものです。

ただ、私の財布とカミさんの財布はドラえもんのポケットのように底でつながっていて、一度入ったものはなかなか出たがりません。

いくらスタート時点の趣旨を説明しても、出金の申請が通らないのです。

私は心から平和を望んでいるので、静かに穏やかに交渉を続けたいと思います。

思いやりをもって、やさしく、ほほえみを忘れずに愛し続けたい、と思っているのですが、、、なかなか思い通りになりません。

そんなこともすべて忘れて、打ち上げでは心の底から楽しみたいと思います。

明日あるかどうかも分からないのですから。ましてや来年など。

 

今週の一言

「平和も戦争も家庭から」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ469 遠慮せずに楽しめ

2024年05月26日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第469回。令和6年5月26日、日曜日

 

22日、何ということもなく誕生日も無事に過ぎ、満68歳となりました。

自分の寿命は60歳だと想定していた頃が懐かしいです。若かったのでしょうね。

年齢は一つの目印であって、年齢によって老人だとか、定年だとか決めることではないはずです。

若い体で若い考えを持ちどんどん動けるうちは若いのであって、70歳であろうが80歳であろうがそれによって何かを規制する必要はないでしょう。

何歳まで生きようが何歳で亡くなろうが、その人の人生はそれで評価されるものではありませんから、あまり気にする必要はありません。

ですから、誕生日だとか、何歳になったとかはあまり意味を感じません。

世間並みのことを口にしてみただけのことです。

 

20~22日、東京の曹洞宗本庁で布教師検定会がありました。

今年度検定委員を務めることになり、上京しました。

布教師を目指して真摯に検定に臨む若い僧侶の姿は、やはり熱いものを感じ刺激を受けます。

少し年齢を重ね経験も重ねた人間は、自分の得たものを惜しみなく後人のために施さなくてはなりません。

そのようにして人間は原始から智慧と知識を受け継いで来たものでしょう。

なるべく多く伝えたいと思うし、また訊ねてももらいたいと思います。

お互いに生きている間です。

 

東京に行くといつも思うことですが、なぜみんな歩くのが早いのだろう。

毎日散歩はしているし、それほど足に自信がない訳ではありません。

それなのに、街を歩いているとみんな追い越していくのです。

自分より年齢が若いと思しきお兄さんやお姉さんに抜かれるのは当然のこととして許せますが、自分より年齢が上だと思われるおじ(い?)さんやおば(あ?)さんが、スタスタと横をすり抜けていくと、多少なりともイラッとして焦りを感じます。

みんなどうしてそんなに足が速いの?

そりゃあ歩幅も違いますよ。キャリーケースを引いてはいますけど。それにしても、どんどん追い抜かれて置いてけぼりになるような焦燥感はあまり感じのいいものではありません。

老いというよりも体に沁み込んだ田舎の時間が都会に合わなくなってきているのだと思われます。

まあ仕方がない。田舎で生きればいいだけのことです。

年齢とともに田舎が心地よくなってきました。あれほど嫌っていたことがウソのようです。

体が田舎仕様なことに意識が馴染んできたのでしょうね。

時間も空間も空気も匂いもちょうどよく感じます。

 

来週に迫った第16回集中講座の第2回実行委員会が23日にありました。

住職は様々に下準備はしますが、当日運営するのは実行委員のスタッフです。

実行委員長、司会、受付会計係、駐車場係、会場係、音響担当、FM担当、会場誘導係、楽屋対応(台所)、門前市担当、記録係、控室担当、打ち上げ担当等、それぞれ役割分担で動いてくれます。

さらに住職は当日の午前に教区寺院の大般若会があり、毎年準備が整ったところに帰ってくるという状態でスタートしています。

回を重ねるごとに頼りになるスタッフ陣です。

今回のスタッフは東京からの参加も含めて総勢38名になります。

それにミュージシャンと気仙沼、金山町、白鷹町からのお客さんで、打ち上げは64名の予定です。

祭りは見るよりもやる方が断然面白い。

その面白さは打ち上げに極まると思っていて、この打ち上げを大事に力を入れています。

その爆発を想像しながら準備を進める時間は私にとって至福の時間です。

来場者が何名というよりも、スタッフが自分の役割として楽しそうに動いてくれることの方が何倍もうれしく、それだけでこの催しを始めて良かったと自己満足しています。

今では、ウチの子どももスタッフにしてくれと連れてくる親スタッフも出てきました。幸甚の至りです。

さて、どんな打ち上げになるか今から楽しみです。

 

今週の一言

「楽しめる時は楽しめばいい」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。