監督 ピエール・モレル 出演 ジョン・トラボルタ、ジョナサン・リース・マイヤーズ、カシア・スムトゥニアク
アクションにこだわった映画である。その撮り方は、ポール・グリーングラスとはまったく違う。ポール・グリーングラスはカメラに演技をさせるが、ピエール・モレルは役者に演技をさせる。カメラは動かない。カメラのフレームの中で役者が動く。カメラが移動するとき、手振れで画面が揺れる、なんてことはない。アクションの一部がフレームからはみだしてしまうなんてことも、もちろんない。いや、これは、映画としてはあたりまえなのだけれど、いまではなんだか古風に感じられる。とてもなつかしい感じがする。
で、そういう映画だと、主役はやっぱり役者の肉体ということになる。
ジョン・トラボルタとジョナサン・リース・マイヤーズは対照的な肉体をしている。くわえて、動きそのものがアメリカスタイルとフランススタイルで差があり、このキャスティングは、演技をするのは役者であってカメラではないというピエール・モレルの主張に沿ったものなのだろう。
しかし、それではどうしたって紋切り型である。アメリカの過剰なアクション。フランスのヒューマンな(?)アクション。これに、もうひとつテロリストの非情なアクションが追加されるのだが。象徴的なのは、テロリストに銃を向けるが、ジョナサン・リース・マイヤーズは引金をひけない。テロリストがジョナサン・リース・マイヤーズの構えている銃の引金をひいて自殺するシーン、そして、その「射殺」をジョン・トラボルタが何でもないことのように評価するシーンに、3人の違いが出ている。
まあ、それはそれでおもしろいといえばおもしろいのだけれど、これに「愛」がからんでくるのが、なんとも、なんとも、なんとも、なんともフランス的。「愛」といっても、男の純情のようなものなのだけれど、変な具合に映像がねじれていくなあ。ジョナサン・リース・マイヤーズのアクションが、どっちつかずになる。ラストシーンで、彼が恋人のテロリストを射殺するシーンなど、わかる? 彼は、女を油断させるために「愛」をことばにしたのか、それとも本心だったのか? フランス人ならわかるのかも。私には、判断がつきかねる。
それに。
その肝心のテロリストも、なぜテロリストになったのか、よくわからないねえ。「信義」に共感したのか、それともテロリストの男にほれたのか。二人がわかれるシーンなんか、死んで、天国で会いましょうみたいな表情になる。
この強い「愛」に、けっきょくフランス男はどうしたのさ。
とても中途半端な映画である。
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