「早春の賦」(2)(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)
140ページ、昔住んでいた家を訪ねる場面。
私は昔から用もない品々を雑然と身辺に置く癖があり、永くさうしてゐると、つまらぬ物にも愛着を生じ、捨て難い気持になりそれらに取巻かれてゐる事で、自家(うち)といふ感じもするのだが、今、此所に来て、それらが一つもないと、最早自家の感じはなく自家とは家屋よりも寧ろさういふ品々の事かも知れないと云ふやうな事を思つた。
これは、とても納得がいく。とても納得がいくし、あ、さすがに小説の神様はしっかりした視力をもっているなあ、とあたりまえのことに感心する。
そして、そのぼんやりした感心に、次の文章が襲い掛かってくる。たたみかける、というのではないが、静かに書かれて、次の段落で、私はうなってしまった。
二階の客間で昼飯の御馳走になつたが、此部屋には前から余り物を置いていなかつたためか、却つて、ゐた時の感じがあり、懐かしい気がした。戸外(そと)は山国らしく、遠く青空のみえたまま、綿雪がさかんに降つて来た。
物を置かなかった部屋。それが、部屋そのものなので、「ゐた時の感じがあり、懐かしい気がした。」こういうことは、誰も書いていないのではないだろうか。目があらわれるような気がした。
そして、このすばらしい文章を、志賀直哉は、「戸外(そと)」を書くことで、そっと隠している。「自家(うち)」は、このとき、まさに「内」になる。「内」の、こころの懐かしさ--それを、知らん顔でひろがっている「外」。
余韻がある。
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