きぼう屋

生きているから生きている

聖霊

2010年07月22日 | 教会のこと
現在当教会は信仰基礎講座と題して
キリスト信仰における大きなテーマを週ごとに分かち合っています

今週は
聖霊
を分かち合っています

この数十年は聖霊が流行しております
それはおおかた
自分の心が聖霊で満たされるか否か
満たされたらハッピーで
満たされていなかったらアンハッピー
ということであるわけですが

聖書は

交わり全体
世界全体が
聖霊で満たされることを証言していて
実は
個人の心が満たされる
ということは
翻訳を丁寧にするほどに
聖書からは取り出しにくいことがわかります

たとえばペンテコステの記事では

聖霊は
嵐のごとく一同を満たしております

イメージとしては
台風のときに
町中がまさに台風で満たされるわけですが
そのようにして
聖霊は全体を満たすわけです


もし心が聖霊で満たされるかどうかで
自分の状態が規定されるとするならば

幸せを感じないとき
元気が出ないときは
聖霊に満たされていないときということになり

それはとても自分を追い詰めることになります

聖霊は個人の状態とは関係なく
たとえ元気でなくとも
幸せでなくとも

いや、そのようなときこそ

聖霊は
その人の生活全体に
満ち満ちるわけです

だから聖霊はすごいわけ



さて
昨晩祈祷会で
不思議な言葉を聞いて
不思議な気分になっておりました

他の教会の説教の最後に
牧師が

思い上がっているときには聖霊は働きません

と言ったということです


うーん
何が言いたいのかわかりません

まず
聖霊が働くのは条件による
という理解があまりにも古く
またよろしくないものです

そしてこのような言葉で説教が締めくくられるとしたならば
それは
聖霊を利用して
人間である牧師が
単純に道徳事項を語ったにすぎません

もっというと
人間が罪を犯しているときにこそ聖霊が働くだろうから

思い上がっているときにこそ聖霊が働き
しかも嵐のようにぶつかってきて
思い上がりをふっとばし
他者に神の思し召しのままに端的にかかわる
つまり
聖霊によりつなげられる

ということになるのが聖書の語るところではないかと思います



聖霊は

他者にかかわれ
というかたちで私たちを導きます

わたしたちの身の丈にあわないほどに
つまり身の丈というのは自分の基準であり
それを聖霊がふっとばし
なお、さらにかかわれ
というかたちで他者に向かってわたしたちを押し出すのが聖霊です

そして
自己理解における身の丈を超えるから
他者とのかかわりのなかで苦しみ痛むことに耐えられないわたしたちは
祈ることさえできなくなるのですが
すると
聖霊が
身代わりとなって祈ってくれるというところまでする
と聖書が証言するわけで
つまり最終責任は聖霊はとってくれるゆえに
私たちは
いわば大胆に
他者にかかわり続けることが許されるわけです

それも
できる範囲ではなく
身の丈ではなく

聖霊が導くままに
神からのミッションとして

かかわるわけです

それが聖霊!!!!