きぼう屋

生きているから生きている

他者のための教会

2010年07月11日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

******************

「他者のためのキリスト教会」

先週金曜の夜、
教会員ではないが、
当教会が連帯する福祉運動を熱心にされ、
ホームレス支援のボランティアでもある男性が牧師館を訪ねられた。
知り合いの生活保護で生きる青年が、
事情によりその日でアパートを出るよう裁判所より通達があり、
彼はその知り合いの方に一日中付き添い役所などをめぐったという。
しかし公的な支援施設に空きはなく、
週明けの月曜日までこの知り合いの方は行き場所がないとのことだ。
そこで教会に相談に来られた。

私はまず、
すでに生活困窮者があふれる時代であるのに、
役所が土日に対応できないことに腹がたった。

しかし
もっと腹がたったのは、
今の教会はさらに何もできないことだ。
私たち教会は、聖書に書かれていることを、こんなにも実行できない!
という罪の重さに気づくことしかできない。

聖書は、
キリストの体なる教会が
他者の隣人となり、
他者を愛し、
他者と共に具体的に寝食する姿を
神の国のこととして述べる。

しかし教会はそれを行ってきたか。

少なくとも私の赴任以降は努力しつつもまだ行き届いているとは言えない。

また、
いつ当教会はこの世のためのキリスト教会となったのか?
は具体的に伝承されるべき事柄ゆえに、
私の赴任前の、
命からがらの他者の隣人となった当教会の物語を、
ぜひとも先輩方には教えていただきたい。

教会の歴史とは、これらが数えられつつ、伝承されることに尽きるだろう。

教会がキリストと共に(他の諸力と共にではなく)歩もうとするならば、
この時代に教会がシェルターを持つ意味は大きい。

シェルター設置に関しては
ホームレス支援に対するのと同じ論理による消極意見も起こるだろう。
私はこれまで
困窮者にかかわることの消極意見との対話に力をかけず、
困窮者へのかかわりに力を注いできた事実があり、
実は当教会において
明日の命を脅かされている他者の隣人になることは
未だ丁寧に議論されていない。

これは牧師として反省するしかない。
しかし今後は議論をするしかない。

時代は変わった。
猶予もない。

この青年は今晩も行き場がない。
きっと野宿をする。

主ならどうするか?
聖書はどのように語るか?

主よ!彼に伴い続けてください。