きぼう屋

生きているから生きている

二度目が肝心

2010年07月10日 | 教会のこと
歴史を学ぶと面白いことを発見できるものですが
わたしはその中でも
二度目が肝心
ということをよく学んでいます

それは
おかしいことに気付き
それを変えるためにがんばって
一度目の挑戦でなんとかうまくいき
それがひとつの転換点になるものの
しかし実は
それなりの時間がたつと
元の雰囲気なり体質に戻ってしまう
ということが実は大半です

そして
もう一度同じおかしさを覚え
もう一度変えるために
二度目の挑戦をすると
その後は雰囲気なり体質がそれなりに変革し
戻ってしまうことが少なくなる
ということに良く出会います


たとえばわたしはバプテストですが

宗教改革で国家からの自由を獲得するものの
ほんの100年でプロテストした教会も国家じみてきてしまうわけですが
そりゃあそれまで1000年以上も続いた国家や教会の体質が芯から変わるほうが無理なわけで
戻っていくのも無理はないなあと思ったりします
でももう一度国家からの自由をうたい
バプテストは誕生し
その後は体質は改善されたままであり
リバウンドはそう起こっていないみたいなのです

しかし今度は国家が(資本経済社会が)バプテストが語っていた個人や合理性を語るようになって
不思議とまた逆の歩み寄りでバプテストが国家と結びつくようにもなります
(今、それはアメリカ教とも呼ばれるようです)

日本へバプテストが入ってきたとき
実は逆の意味での国家と組したバプテストだったのだろうと思います
だから戦争においても国家に組した歴史があります
でも戦後
日本のバプテストは国家から自由になる道を歩みます
(しかし当時の日本の人口とアメリカのバプテストの人口はきっと同じくらいなので
 貧しい日本ではなく、富むアメリカバプテストに組したということかもしれませんが)

しかし
やっぱり
体質改善は一度ではうまくいかず
アメリカ教とも呼ばれるようになった国家とつながる思想を
日本の教会ももう一度無意識にも持っていくわけです

でもそのおかしさに
アメリカのバプテストから自由になるということを求めるかたちで気付いて
経済的にアメリカから完全に自立する道を選びます

つまり二度目の挑戦です

そして二度目を経ると
聖書主義
キリスト主義
というところに立つこともかろうじてわずかながら可能になってくるのだなあ
と思います

それまでは
国家主義
個人主義
経済合理主義
だったりしたわけです


ウチの教会も

私が赴任して
ホームレス支援をはじめ
教会の形態や体質を変革する信仰理解と活動を行ってきており
それが一度目の挑戦としてそれなりにかたちになっているわけですが

しかし
そろそろ
リバウンドといいますか
もとの体質に戻るということも
なんとも無意識のうちにとっても自然に
起こってくるだろうと予想します

そして
同時に二度目の挑戦もはじまります

そこからが肝心なわけです

それが人間であり
それが歴史の常なんですなあ

しかし
だからこそ
これからが楽しみです


新しい体質の教会に共鳴して集まっている若者のみなさんには
こういうあたりも覚えてもらいつつ
遠慮なく積極的に
楽しみつつ
二度目の挑戦に参与していただきたいなあ
と思うわけでございます


この世のための教会として
歩みはじめましょう

アーメン