きぼう屋

生きているから生きている

教会の本質

2010年07月02日 | 教会のこと
ひとりの青年がアイデアを出して呼びかけてくれました

木曜日の夜に
みんなでごはんを食べて
聖書を読んで
お互いのために祈ろう

昨晩
第一回目が開催されました

美味しいし楽しいし幸せだしうれしいし慰められるし明日が見えるし生きる気になるし

これはいい
これはすごい

これが
きっと教会の本質の中の本質
なんだと思いました

一緒に食べて
一緒にみ言葉に触れて
そして
み言葉に生きる
つまり
互いの重荷を引き受けあって祈りあう

発案してくれた青年が
おいしいカレーをつくってくれました

今後も毎週
まさに主からのミッションとして
よろこんで食事を用意されるとのこと

感謝感謝


教会の活動は
すべて
もちろん礼拝も含めて

誰かが主から受けたミッションに
他の者たちが共鳴し
それを共有のミッションとして
複数人で聖書を読み祈り行う

ということなのだろうと思います

逆に言うと

伝統だからするのではなく
儀式だからするのではなく
恥をかかないためにするのではなく
牧師が言っているからするのではなく
執事会で決めたからするのではなく

キリストの体なる具体的な教会という家族の
誰かの受けたミッションにみんなが喜ぶところから
教会活動は始まるわけです

当教会も
わたしの赴任以降

火曜昼の祈祷会

ホームレス支援炊き出し
がそのようなかたちではじまり

実にそのふたつの交わりにより
イースターもバザーもクリスマスも教会学校も
実質上担われてきた経緯があります

そのふたつの交わりが
隅々のなかなか見えない部分まで行き届き
教会活動を豊かにしてきました

今は
そこで教会のすみずみを見てきた人が増えているため
全体懇談会などで
しっかりと担うことができるようにもなりました

つまり
誰かが具体的に受けたミッション
というところが
教会の本質を獲得するためのポイントなわけです

そしてこの木曜夜の集いからも
優れていろいろな証しがうまれてくるだろうと思います
この集いから教会の本質が再獲得されるということにもなろうと思います


そもそも
50年前の教会の青年会って
こうだっただろうなあとも思います


昨今思うのは
教会は
50年前にやったことを
もう一度やったらいいなあ
ということ

懐古趣味といわれればそれまでですが

50年前にしていたことを
個人主義と合理主義により
相当につまらないかたちで放り投げていると本気で思います

これはもったいない

しかもたかだか50年
遠い将来から見たら同じ時代

つまり
この50年はちょっとした揺れであり
強烈だった人間の思想に流れるケースが多かったほんの50年があったというだけであり

だったら
また50年前のことをしたらいい
と思いました

さてさて

教会の本質ですが

それは具体的な交わりです
互いに互いを良く知るようになる交わりです
互いの罪が告白され互いに担い合えることを目指す交わりです
互いに祈りあう交わりです
互いに笑い泣く交わりです
共に食べて生活する交わりです
共に礼拝する交わりです

互いに互いの身代わりになる交わりです

わたしはわたしとは絶対に思わない交わりです
わたしはあなた、あなたはわたしという交わりです

一人で生きていけるなんで絶対に思わない交わりです
主と共に生き、他者と共に生きるしかないし、そうでなければ生きられないし生きたことにならないことを豊かに知っている交わりです

自分の能力とか賜物とか財力とかを絶対に求めない交わりです.
主からのミッションのみを求めて端的に分かち合い行いあう交わりです

できるかできないかで判断することを絶対にしない交わりです
主のミッションはやる!という交わりです
主以外の諸力によることはやらない!という交わりです

そしてこういう交わりは

共に食べ
共に聖書を頂き
共に祈る

という具体的な場所と時間を繰り返し共有し
その場数を踏むごとに

まさに教会の本質として
形成されます


木曜夜の集い
これは仮称ですが
これからみんなでいい名称をさがしますが

ぼちぼち続けていきたいのであります

感謝感謝