きぼう屋

生きているから生きている

戦争と嘘と積極性と憲法

2015年06月05日 | 平和のこと
変なタイトルでごめんなさい。

で、

安保関連法案は違憲。
と、憲法審査会に呼ばれた専門家全員が言いまして。

至極全うでありまして。

でも全うが全うとならない行為が、逆に全うとされるような政府があるので、
全うなことが全うとされないような雰囲気がなお醸し出されてもおりまして、
なんとも変な感じなのでありますが、

しかし、政府に限らず、
全うであるものから批判を受けつつ生きるのではなくて、
欲しているものが全うであると言い切って生きることは、
人の世では常にはびこることなのだろうと反省しているところでもあります。

だから、安保関連法案が合憲であると言い切ることは
嘘であるけれども嘘であるという感覚すらなくなるくらい、全うなことだと言い切ることの出来る精神が既にあるだろうと思っています。

自らの欲するものを手に入れるために、それが正しく全うであると自分に言い聞かせるばかりでなく、それを他者にも説明でき、さらに他者もそれに同意してしまうくらいの、
それくらい、今のわれわれが、自分の欲するものを実現したいということに夢中になっているという、そういう精神が既にあるのだろうと思っています。

自分の目標を達成するための諸々
自分が気分良くなるための刺激、興奮
自己実現

これらはもはや精神として、かなりもてはやされつつ存在しているのだろうと思います。

そしてこの精神の基準は、自分ではかることの出来るものであり、
それもおそらく、かなりわかりやすくはかることのできることであり、
おそらく、いや、間違いなく、快感、刺激、満足感と呼ばれるようなものたちだと思います。


そして、この精神は、必ず、
嘘や隠し事と肩を組むしかないものでもあるに違いないと思います。

目的を達成する快感、気分が良くなるための刺激は、何かを隠し、事実を曲げてでも、獲得されるものとなっているようであります。
このように獲得することを積極性と呼び、
それがポジティヴシンキングと呼ばれることも多いと感じています。

ナチスが戦争に賛成するキリスト者を積極的キリスト者と呼んだり、
安倍さんが、戦争の出来る状態を積極的平和主義と言ったりするのは、
偶然ではなく、この精神が横たわっているゆえと思ったりします。

そこでは、
過去の、都合の悪い事柄は隠され、
欲するものを手に入れるために、逆に過去が修正され、美化され、
そのためには、嘘がつかれる、
けれども、
その隠すこと、嘘をつくことにも気づくことが出来ないという、
また隠されていること、嘘をつかれていることにも気づくことが出来ないという、
そういう精神が、強固に、横たわっているのだと思います。

積極的に生きるという名の刺激と快感と自己実現は、
戦争と肩を組むしかなく、
嘘と隠し事と肩を組むしかなく、

そうなると、

違憲も合憲ということになっていくのだろうと、、、。

だから
欲するものを手に入れるための精神は、
単純な刺激や快感や自己実現が、全うなものを覆い隠すゆえに、

逆に、
全うなものから常に批判されつつ歩むところに、
平和を見たいと願うのありまして。

憲法はそのための全うなものとしてあるだろうなあと。

私の場合は、十字架のキリストから、全うなる十字架のキリストから、批判されつつ歩みたいわけでありまして。