きぼう屋

生きているから生きている

さばきの神?

2012年07月17日 | 教会のこと
今週の日本バプテスト京都教会の週報巻頭エッセイです。

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「さばきの神?」

ほぼ毎週の礼拝説教時に嘆かせていただいていますが、
サムエル記から現代の私たちへのメッセージを取次ぐことは、私の限界をとっくに超えていることでもあります。
毎週毎週、主に祈りつつ、取次ぐことのできない罪を赦していただくことを信じつつ、取り次げずして取り次ぐという業を担わせていただいております。

私たち京都教会は、「聖書教育」誌の聖書箇所を毎週の礼拝で分かち合いますが、
実は、クリスマスまではずっと旧約聖書を分かち合うこととなります。
それも、難しい書簡が続きます。

しかし、そんな中でも、旧約聖書に毎週触れる機会が与えられる中で、
私たちの信じる神さまが何者であるのか、ということが少しこれまでよりも深く与えられているかもしれないとも感じています。

キーワードは「さばき」です。
私たち一人一人を、私たちの世界を、しっかりさばいて下さる神さまが登場します。

ならば、さばかれないために、私たち人間は、清く正しく生きることが出来るのか!
というと、そういうわけにもいきません。
神さまが、私たちを、神さまにさばかれる存在、罪人とされていることをも、知ることになります。
神さまの働きを委託された者たちが、しかし神さまから贈られた悪霊により、神の望まない行為を行うというのが、この間の聖書の最大のテーマです。
新約聖書風に言うならば、私たち人間は人間というよりも「罪人」であるということです。
だからといって、罪を犯すしかない罪人だから罪を犯しても許可されるわけでもなく、
神が悪霊を贈ったのだから悪霊により、悪を為しても許可されるわけもなく、
罪を犯し悪を為すことから逃れられない私たち人間は、
しかしそれゆえに、神にしっかりとさばかれ、
そのさばきの場において、神と出会い、すべてが神によることを圧巻的事件として受け、
そこですべてを神に委ねることが、はじめて起こされていきます。

サムエル記を通して私たちは、
聖く生きる人と悪く生きる人がいるのではなく、
悪く生きる人(すべての人)が主と出会う中で、主の聖さと出会い、それで生きることを知るに至っていると思います。

そして私たちはサムエル記と同時に新約聖書からメッセージを戴くことができます。
新約聖書において、主イエス・キリストは、
悪を為すことしかできない私たち罪人を救うために、
そのすべてを身代わりに背負い、十字架で殺されました。
殺したのは私たち人間です。私たちは受肉された神であり人である主イエスを、自分の代わりに殺しました。

しかし、主はよみがえりました。
もはや私たちは、受肉された主を殺すように、復活の主を殺すことができません。
受肉された主を私たちが殺したのとは逆に、
今度は復活の主が、私たちを死に導きます。
そして死から復活の命へとさらに導きます。
復活の主は、そのようにして、徹底的に新しい命と新しい世界を創造します。
人間はそこでキリストの体とされ、世界は神の国とされます。

だから、私たちはバプテスマを受けます。
死んでよみがえります。

そういう意味では、復活の主も、またさばき主です。

さばきの神は、即、救いの神、赦しの神です。

ぜひこの神と共に生きていきましょう。