きぼう屋

生きているから生きている

誰と?

2008年09月08日 | 「生きる」こと
四男の憐くん(3歳)が
保育園での出来事を報告してくれました

今日な
ペスタでな(ペスタってのは保育園の名前の略称)
野球したで

そしたら
三男の添くん(小1)が
憐くんに尋ねました

誰としたん?

憐くんがとてもたくさんの名前を言ってくれました

たぶん
野球を一緒にしていない人の名前も言ってくれました


というやりとりを聞きながら
わたしは
添くんの質問の深さに感動していたわけです


何をしたか
よりも
誰としたか

を問うことの深さに感動します


いわゆる思い出
というものは

何をしたか
ということで脳裏に残っているのではなくて
誰といっしょだったか
ということでもって
残っているのだと思います

キリスト教会の人間としては
この
誰と
という問いを
常に中心におくことを忘れてはなりません

インマヌエル
わたしが共にいる!
という神である
主イエス・キリストと
それこそ共にいる!
ことを繰り返し覚えるのが

教会の交わりであり
信仰であるわけです

教会
信仰
とは

主イエスが共にいる
ということを本質とするものです

つまり
誰が一緒?
という問いが中心ということです


さてさて
思い出ということでいうと
場所というものも
脳裏に残っているだろうと思います

つまり
何をしたか?
ということよりも
どこでしたか?
あるいは
どこにいたか?
が重要なわけです

教会
信仰

生きる者としては

神の国という場所
それは
主イエスが出かけている
この世界における場所


一緒に行く
ということを目指します

だから
何を?
よりも
どこに?
という問いが大事なわけです

誰と?
どこに?


生命
存在
世界
にとってはなによりも必要です


しかしきわめて残念なことに
いま一般的に求められているのは

何を?
という問いであり事柄です

小学生の息子たちの学習内容を見てみても
何を?
という問いを中心にする人のためのものであることがわかるし

だから当然
何を?
という問いを持つ生き方で馴染んできた子どもが
成績が良くなるというのが
いまの学校であるし
またそのまま
何を?
という問いに馴染んでいるいる人が
世をうまく渡るだろうし
いわゆる勝ち組になるのだろうと思います

さらに
その何を?
という問いに
どうやって?
という問いを持つことに馴染んでいると
さらに成績が良くなるし
さらに勝ち組になることができる世の中です

しかし
何を?

どうやって?
という問いは
生命
存在
人格
関係
世界
というものの本質には
迫ることができません

どうやって?
という方法論
つまりハウ・トゥーは
何を?よりも性質が悪いし
本質をまったくつかまないはずです


誰と?
どこで?

で生きる人間として育まれる!!

これが
教会教育の使命なのだ


添くんの憐くんへの問いから
確認できました

感謝感謝