きぼう屋

生きているから生きている

歯磨き法からの脱出

2008年09月17日 | 「生きる」こと
息子たちは歯磨きをして寝ました


その歯磨きの仕方が
見事にどこかで教えられたとおりで・・・
しかも機械のように
見事なリズムとスピードで
歯ブラシが動くための
体の各筋肉が収縮しておりまして・・・

ハッとしました

わたしもそうでした

前歯はこうゆうふうに
奥歯はこうゆうふうに
裏側はこういうふうに


教えられたとおりに
歯ブラシを動かしていました


こういう歯ブラシから解放されたのは
大人になってからでした

二十歳のことでした

ふと
歯磨きは
歯を
それもわたしの歯のひとつひとつを
磨けばいいのだ

と思いました

つまり

歯のひとつひとつを意識して
歯ブラシを丁寧に当てる
ということを

その歳ではじめてするようになりました


歯は左右で同じではないですし
一本一本異なりますし

そもそも

幼少期に
全員まったく同じ歯磨き法を教わったのだけれども

みんなの歯は見事に違うわけですし

ほんとは
歯磨き法がカバーできる範囲は
狭い
ということに

あの歳でやっと気が付けたわけです


この手のことは
実はどれも単純で

ひとつひとつに
意識を丁寧に持っていって
丁寧にこなせばいいわけです



これは
あらゆることに言えるなあと思いました

仕事でも家事でも
人間関係でも

丁寧な意識

丁寧な作業

を単純にすべきところで
しかしそれができていないケースが多いのだけれども

そうなっているときに
なぜか
これからは丁寧にやりましょう!
ではなくて
歯磨き法ならぬ
仕事法や家事方法や人間関係方法
を語りはじめてしまう!

というケースが
多いというか
ほとんどだなあ
と思うわけです


この10年のわたしのたたかいは
こういうところにあったような気がします

方法で語ろうとするところで
単純に丁寧にもう一度しましょう!
といい続けてきたのだと思います



今週
とある総会で議長をしまして

そこでの議論が
やっぱり
方法探しだったので

なんだかえらく疲れてしまいました


やはり言わねばなりません

単純に丁寧にやれば何でもない話ですよ!と・・・


議長だったので
その場ではそんなこと言えないので
落としどころをなんとかみつけて
なんとか次に進めるようにはなったのですが

丁寧な想像と追体験と共感のない
筋だけ通っているという言葉が行き交うのは

ひとつの病なのだと思いました


この発言のすべてが
そのまま
自分にのしかかってくるという
そういう立場にもなるわけですので

まあだからこそここまで言えるわけですが

祈りつつ
なんとかしていこうと思います

ではでは