Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

江成常夫の写真展

2011-08-13 09:29:16 | その他
恵比寿ガーデンプレイス内にある東京都写真美術館で9月25日まで開催している「昭和史のかたち」展を見学する。なんでもライト感覚がうける時代にこんなに重い素材はどうかな?と館内を一瞥する。旧盆まえの平日、都内はぶり返す炎暑のせいか34℃。ギャラリーはちらりほらりで作品と対峙するにはちょうどよい環境が醸しだされている。
66年前に終わったはずの戦争のいまなお人々に残している禍根!これをまっすぐに見据えてきちんと本格仕事を重ねてきた写真家の仕事が一望できるのだ。写真の展示は先の大戦に絡んだ「ヒロシマ」「「ナガサキ」「満州」などブロックごとに仕分けされていて、「太平洋」を象徴する戦争遺跡を訪問して撮った写真群に「鬼哭の島」というタイトルがついている。
「鬼哭の島」とは硫黄島、サイパン、ガダルカナル、フィリピン諸島、インドネシア等太平洋戦争時の激戦地帯を指す造語なのだろう。いまだに収集が終わっていない遺骨が何万と眠る風光明媚な南洋の島々、母や妻や子の名前を叫んで逝った無名兵卒の最期を想像すれば、鬼が泣くのは自然な感情で作家の反戦への思いが込められている言葉だ。
「火炎樹の花」はハイビスカスやブーゲンビリアなどと同じように熱帯を代表する燃えるような赤い花である。この花が地面に散っている何気ない風景写真が「火炎樹の花」という作品である。
写真家はガダルカナル島を訪問した際に猟犬の視覚で象徴主義的撮像へと見事に結晶させている。
因みにガダルカナルの戦死者数は3万以上の将兵が戦って餓えと病死を含む死者が2万1千人だそうだ。これはちょうど今回の東日本大震災によって亡くったり不明になった方の総数に匹敵する数である。一つの島でこれだけの人数が散っていったことへの痛恨をこめて写真家はレクイエム的にこの血染めの花に喩えられる花の散乱を描写している。

自分は戦後間もない日本中が一億総貧乏時代のさ中に生まれた。母は自分が生まれる前に先夫がいて、その夫とのあいだに自分にとっては異父兄にあたる男子を昭和18年に産んでいる。
その夫は空母「赤城」の兵士でこの航空母艦はミッドウエイ海域で米軍との交戦によって撃沈されて戦死したそうだ。未入籍だった母は乳児を育てながら戦後すぐに自分の父と結婚した。その乳児は不憫に思った母の姉が養子にひきとった。幼少時に従兄弟と思っていてよく遊びに行っていたのが、実は兄と知ったのはかなり後のことである。

太平洋戦争が始まったのが昭和16年、「赤城」が撃沈された頃は日本の生産力を含めた国力が米国に比べて劣っていたのは明らかだったらしい。それを承知で近代民主主義の薫陶を経ない軍部、翼賛政治党派(いまでいう自民・民主)、大本営丸のみメディアが一丸となって昭和20年の8月までズルズルと弱い立場の国民を引きずって招いた結末が先の敗戦である。
世間では懲りないプチ愛国主義(実はグローバル化大歓迎の実利保守主義者)が跋扈し始めて久しい。
江成常夫の藝術至上主義の細緻な視線と厳格主義、心根にたたえているヒューマニズム、こうした感性が齎す爪の垢でも煎じれば、自分もまだまだ田原総一郎みたいなおかっぴきに思想善導されるTV世論迎合型の類型的日本人にはなりそうもないと、終戦記念日を前にした感慨を抱いているところだ。

走る蒼

2011-08-05 10:26:32 | その他
先日、茶会記オーナーの福地氏より案内された四谷・荒木町の一軒家カフェ「百舌の蔵」で横目で眺めた伊万里の新旧混じった器を思いだす。それらの日本的で精密な呉須の絵柄はどれも立派だが、なにかが足りないなと心の中で反芻していた。そこで数年まえに新宿の大京町の一角で更地となっていた場所で自分が掘り起こした江戸前期の呉須の破片を取り出して眺めてみる。
何度も繰り返した江戸市中の大火、戦時の空襲、などを経て何時の間に地中に埋没した、染付け初期の食器類の破片である。ビルの再建築が始まるまでの一年が掘り出すチャンスだった。
かっては新宿御苑に隣接する地域で相応な格というべきか、録を食む武家の屋敷が連なっていた町だ。地面を重機で均した跡地を眺めていたら妙な閃きがおこった。
話は逸れるが渋谷の桜丘町時代によくエスプレッソを飲みに寄っていたジャズ喫茶「メアリージェーン」があった。ここのF氏も新旧の陶磁器が好きでよく色々な骨董話をしたものだ。
新橋の浜離宮に隣接する再開発が始まった頃、メアリーの常連客がバイトで発掘仕事をしていたらしい。全く知らない人だがそのエリアに該当する加賀の前田家屋敷付近から出土した数個の磁器のカケラを見せてもらい羨ましいと思ったことがある。呉須の色味も控え目な茶器だった。そんな見聞があってから新宿の一角で同じような破片を自分が掘り出すなんてことは、夢にも思っていなかった。

これは伊万里系の好きな人に好きなだけあげて、残った破片は隠匿するお宝として仕舞ってある。「百舌の蔵」にある伊万里手の多くと、我が破片の違いがなんとなく分った。それは絵筆の走りの違いといったものだろう。立派な格調を誇る鍋島や伊万里手の尺皿と我が破片の茶碗、高台の裾に長方形に繰り返す手描きになる悪戯っぽい図柄、この破調ぶりは江戸というよりも桃山に近い躍動である。いつも陶器をみて感ずることだが、時代を遡れば遡るほど、巧緻を超えたスピードや躍動にめぐり合えることだ。

JAZZ名盤999第2期から

2011-08-03 11:44:29 | JAZZ
デッカのコーナー型スピーカーに魅せられているが、ジャズは圧倒的にタンノイの10インチモニターゴールドに分があるようだ。
暑さも少し緩んでこのモニターゴールドの生彩を納得させるソースをと!思って物色していたらちょうどよいCDに遭遇することができた。

旧東芝EMIという会社はブルーノートという超有名レーベルを擁してきたが、今はEMIミュージック・ジャパンという会社になっている。
そこはブルーノート以外にもキャピトル、リバティ、パシフィックなどの一時代を築いたレーベルも傘下に納めている。今度はジャズファンの高齢化と不況を吹っ飛ばそうという意図なのか?1000円シリーズならぬ999円というデフレ奇襲に打ってでた。1円の差がもたらす幻惑の効果はどんなものだろうか。駅ビルの新星堂でLP時代には、何度も買い替えたことがあるLPがこのCDシリーズの2期に収まって売っていた。24bitリマスターなどの呼び込みコピーにはもう騙される年ではないが、そのジャケットについつい吸い寄せられてしまう。

ビル・パーキンスとリッチー・カミューカ、テナーマンの2テナー作「TENORS HEAD-ON」とハンク・モブレー&リー・モーガンの「MONDAY NIGHT AT BIRDLAND」この2枚は古い時代(50年代後期というジャズ的豊饒期)のジャズ音力を体感できるジャズファンの良心の砦、心の糧の見本になるべきCDだ。

この夏はどういうわけか?蝉時雨を聴くチャンスがない。夏空の下に暮色が立ち込めた凪のようなひととき、そんな頃合いにピッタリな曲が2曲目の「I WANT LITTLE GIRL」7曲目の「SPAIN」どちらもテナーサックスの優しさと憂鬱の湖水にさざめくコラボレーションの陰影を楽しめる演奏である。

そして「MONDAY AT」は旬というものの溌剌を自発的に連射するリー・モーガンの輝いてはちきれそうなソロが最大の見せ場で他の奏者はどうでもよくなるCDに違いなく、これは初CD化された地味名盤だ。この盤がルーレットではなく、ブルーノートでリリースされていたらもっと売れたに違いない。
旧盆があけて空いてきた高速道路を駆け抜ける旧型車のカーステレオをフルボリウムにして聴く、そんなシーンにぴったりな曲が「THERE WILL NEVER BE ANOTHER YOU」一瞬の青春が取り戻せること間違いのないこれまた全力疾走するジャズ演奏の見本みたいな曲である。


八月

2011-08-02 21:34:35 | 自然
日向薬師へ上る表参道の西側に野猿の集落があるらしい。同じ敷地
にある隣家のラブラドールが低い声で吼えている。誰か見知らぬセー
ルスの訪問者でも来たのかと入り口の方を覗いてみた。
人の気配はしない。西側の小高くなった隣地は畑だ。畑との境目には
柿の木や相当に樹齢を重ねたネズミモチの大木が繁っていて、物陰を
作っている。そのあたりで軽やかに枝を伝わって動く大きな猿がいた。
隣家の犬の吼える相手が猿だったのか!と合点がいく。

さすがに猟犬のDNAを引く隣家の犬、威嚇するときの声調は一段と
低くなるみたいだ。猿は繋がれている番犬の遠吠えを尻目に畑の餌
の偵察を終え太い梢を伝って巣のある北側へ悠然と去って行った。
以前はめったに人目につかない猿だが、人間界の不況に呼応してい
るのか、最近は人家の近くにある畑付近に出没し始めて餌を捜してい
るようである。山に自生する天然の木の実などでは満足できないのか?
餌不足は間違いがなさそうである。今年は冬場から猿を目撃する頻度
が増えた気がする。

先日、小高い隣地の畑脇に食い散らかされたカボチャがあったらしい。
大家さんによると、猿の仕業とのこと。あの固いカボチャの皮をどの
ようにしてこじ開けるのか、一度見てみたいものである。
椎茸や茄子なども好物のようで付近のある程度、大掛かりに畑作を
する人は、畑の周りをネットなどで防御せざるをえないみたいだ。

八月の声を聞いて我が放置菜園の裏地は草がボウボウだ。健気に実るカボチャは一個100円くらいのミニカボチャである。敷地を所有する大家さんの畑では大きなカボチャが健やかに八月の養分を吸い込んでいる。
目前に番犬がいてはご馳走に手を出せない。猿たちもきっと、たわわに実るカボチャの攻略をきっと思案しているに違いない。