Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

「山頭火の宿」大山澄太

2022-02-21 22:00:16 | ラジオ亭便り

平日の高齢アルバイトから足を洗っておよそ一年経過。年初からカフェ営業日を増やしたら、皮肉にも変異型ウイルスが蔓延して客足もすっかり遠のく。少なめなお客さんとの宥和というか、懇親を心がける春近い日々である。音楽で隠遁しながら読書でも現実逃避の居心地を楽しむ。最新の安価古本の収穫は大山澄太「山頭火の宿」(彌生書房刊)。阪東橋バス停前の均一本から掘り出す。

明治生まれの山頭火を逝去する昭和10年代まで、句友としてリスペクトしつつ物的にも誠実に支えた方である。その方が俳人山頭火の「行乞」旅の日記、句作品との照合をしながら論じたのが本書だ。「行乞」とは托鉢のようなものらしい。法衣、笠、草鞋、鉢持参の出立ちで、地域ごとに戸別訪問を繰り返す。山頭火の場合は禅宗系の経文を唱えて、その日の宿代に充てられる米や小銭のお布施を頂戴して旅の凌ぎを重ねていた。

「西国33ヵ所 四国88ヶ所」の九州、四国地方、自分の故郷にも近い中国地方等を踏破している。普通の托鉢僧なら仏教の教義布教と修練を兼ねた道行きだが、山頭火の場合は少し違う。「行乞」は仏教的修養と共にある「吟行」の旅も兼ねていた。生涯の句作が8000余。絞り込んで自選した800の句が収められている「草木塔」は最良の入門書だ。私の愛好する素朴な諷詠句も宝箱のように満載されている。

大山氏と同じように山頭火の自由律俳句と生涯を研究していた上田都史さんには「評伝 山頭火」(潮文社新書)という本があって、その中で「ほいと」という言葉を知った。「ほいと」は普通の托鉢僧、札所を詣でるお遍路さんと区別する「乞食」を指した言葉である。山頭火の格好は、昔のテレビドラマで黒い法衣を纏った新劇俳優の北村和夫が演じたものが、うっすらと記憶の残像にあるが、実際は「ほいと」に紛らう惨憺たる襤褸姿が常態だったらしい。「山頭火の宿l」にも突然、訪ねた実妹の嫁ぎ先を「ほいと」姿の為に近所の人目につかない時間帯に送り出されるような悲しい挿話が挟まれている。

山頭火も数回の心安まる定住を目論んだことはあったが最期を除いて、長くは続かない元の無宿生活に戻ってしまうという業を重ねていた。行乞成績が良い場合の旅籠、又は木賃宿に独居。酒にありつけ、飯にもありつけ、温泉にも浸かれるというのは理想形で、九州の宮崎、熊本等では良い気分になって自然に囲まれて自足する山頭火の心の模様が伝わってくる。

しかし良いことは続かない。喜捨、お布施の貰いが悪い時は飢える事もしばしば、絶食、絶酒の事態を招いている。風体や路銀不足によって宿を断られた四国の行脚では、惨憺たる野宿もあったようだ。犬に吠えられたり、噛まれる、お布施の米袋をネズミに齧られる。無人のお堂に起居して地元の住民に追い立てられる。誠に山あり谷ありの苦行旅だが、肝心の句作は素朴で静謐な心の自然なる滴りのような良い言葉を量産している。

大山澄太著の宿論で感銘したのが、90ページ付近から展開される挿話である。土佐の行脚も懲り懲りするような野宿もあれば、貧乏人一家との思わぬ邂逅話が混じって面白い。本来なら「ほいと」容姿でお貰いが立場の山頭火に、逆に米を譲って欲しいと主婦は声をかける。山頭火は応じて貰った報酬で主人と飲む酒や子供の食料を調達してくる。一家はありったけの食材で饗応してくれる。器も布団も揃っていない掘立て小屋だ。その貧乏家で2泊する山頭火の素直な喜びが滋味のように伝播する。その家で契機となった良縁がさらに奥地の仁淀川沿いの池川という町の行乞の好成績を招くというこれは良い方の話である。

 

 


ときどきの客

2022-02-15 07:48:18 | ラジオ亭便り

店の付近には竹の丸、鷺山という町名の区画がある。横浜特有の坂を上り下りする丘陵地に住宅が密集している地域だ。その辺りに住んでいる同年輩に見える方がひょっこり現れた。ラヂオ亭が山元町から麦田へ移転した5年前頃、毎日のように寄られた方だが、久しく顔を見なかった。独居と聞いていたので病気でもして身動きが取れないのか?と時々思い出す人だが、以前受けていた病み上がり感は消えていて安心する。コーヒーを美味そうに啜るとせいぜい20分くらいで帰ってしまう。しかし時折交わす雑談は床屋政談やメディア受け売り風時局話にならない程度に面白い。昨日もカフェは定休日なのにドアを半開きにして夕方の読書タイムをしている時だった。そこへ先週に引き続いて寄って頂いた。

昨日のチョッピリ雑談はコロナウイルスの世界的流行の原因説について。彼の珍見解では中国道教の呪術が齎した収拾がつかない事態ということである。これがコロナ流行の初期に流された武漢研究所漏洩説に結びつく話なのか?確かめることはできなかった。彼によれば日本の古代史に登場する卑弥呼、須佐之男命のような人物もこの中国道教とは無縁ではないらしい。記紀神話に登場する人物の係累図は生齧りの自分などでは到底理解できない。しかし彼の中では神道と仏教を含めた相関図は透明に仕上がっている様子である。後年の天台、真言について語る口調、各地の社寺についてのフィールドワークで鍛えられた独自の神仏論を溜めている様子は端々に散見されている。

昨年に、私が嵯峨野を散策ついでに「松尾大社」に寄ったことに触れたら、彼は「あなたから以前に感じたクロい異物感が消えている」と松尾を祀っている神へのポジティブな評価をチラッと伺わせていた。彼流の魔術、魔界神仏と善良神仏を隔てる仕分け基準がどのように成されているのか、もう少し知ってみたい気分になっている

 


豆柴の気質

2022-02-04 12:43:42 | その他

歩いて数分のところに知人の一家が年末に引越してきた。その知人が昨年の初夏に柴犬の生後3か月の雄犬の通称「豆シバ」を購入した。郊外のペットショップへ引き取りに行くクルマ運搬の手伝いから、その柴犬とは縁ができた。指を嗅いだり、用心深く舐める様子が可愛い。

引っ越し後は接触機会も増えてなついている。仔犬といえどももうすぐ一歳。人間換算にするとティーンエイジャーの青年だ。忙しい知人が構ってやれない外出に際した時の情けない鳴き声、表情をみると不憫に思ってしまう。そこで店開け前の午前散歩の代役を引き受けることがある。「鍵っ子」ならぬ「鍵犬」状態から解放されてか、喜んで路地裏や坂道を牽引する筋力は勇ましい。

ポール毎のマーキングは躾が行き届いている。しかし「出物腫れ物ところ嫌わず」通り、高名なファッション街の舗装路へ差し掛かるといつも便意を催すらしい。今朝も2回やられて人目を避けるように素早く回収する。婦人グループで賑わい出す時間に至ってないのが幸いといえば幸いである。安堵して散歩の代役も終えたと思ったら、今度は柴犬というものの先天的な気性の難しさに対面する。

家人が留守の部屋に入れてリードを解除する私の仕草に抵抗する。目つきは「下手」と言っているようだ。これを機に「こいつは部外者」という不機嫌な威嚇までが流れてくる。急いで放し飼いの居室へ押し込めて引き上げることにした。「柴犬は飼い主の他にはなつかない」という血統的伝承を耳にしたことがあるが、今朝は改めてその思いを強くした。


お宝持ち寄り会

2022-02-02 18:41:07 | ラジオ亭便り

オミクロン型の急速蔓延でまたまた人の流れが変化してきた。慢性的に暇なカフェが輪をかけて暇になっている。今年からウイークデイもラヂオ亭を一部再開してみた。しかし、客足は低調である。せいぜい2〜3人の馴染み客が現れる程度だ。しかしその渦中に、趣味の合う少数の爺さん同士がマスク会談をして茶飲み話するのも一考と思い声を掛け合ってみた。

結果三人が集まって、私を加えた4人の平日雑談会に。ドアは半開き、換気扇もぶん回す。コーヒー、煎茶の菓子は気の効いた粋人の持参品、鎌倉の老舗、豊島屋名物「鳩サブレ」だ。最高の茶請けに一堂は感謝する。本日の話題は「低山に名山あり」どこか御殿場在辺りの三国山から御殿場線の駿河小山駅までの軽登山でも実行したいね等というプランが浮かび上がってきた。これは3〜4月中にでも実行しようという結論になった。

そんな話の合間に横須賀で古くから楽器店を営んできて、今は引退しているKさんが持ってきたお宝話で盛り上がる。1969年にニューヨークの「ハーフノート」で憧れのジャズシンガー、アニタオディに対面できてLPレコードにも直筆サインを頂いたという愉快な体験話である。私等は30歳代にジャズボーカルに目覚めた晩生(おくて)だが、それもヴァーブレコードの「アニタ シングス ザ モスト」がボーカル大好きになったきっかけ盤である。

幸いにもそのKさんがLPから後にCD化された「シングス ザ ポールウイナーズ」を忘れて帰宅してしまった。今夜はフィッシャー社の真空管プリメインアンプとラファイエットIIの小型スピーカーで、久しぶりにアニタの潤色に満ちた歌声で冬夜を凌ごうと思っているところである。