Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

石上玄一郎という原石

2013-11-22 17:30:25 | その他

会社の清算後始末がだらしなくて若僧の管財人にとっちめられながらもようやく開放された。数年間に及んだしこりがようやく融解しはじめてうす曇といった心境になっている。アルバイト風仕事の隙間で頻繁に散歩兼用逃避を繰り返しながら鬱屈を発散してきた自分がいる。やれやれという気持ちにはなっても巻き返すという資本主義的な内圧はもう高まってこない。荷風散人を真似して暇があればほっつき歩くことを是としたい気分になってきた。横浜、八王子、上野、根津、神田、などは昔ながらの好みのポイントでついつい足が向いてしまっている。昨日も古書漁りをかねて半蔵門から千鳥が淵を歩いて九段下経由の神保町というコースへ出かける。東京における初冬の凪ぎ日を満喫するにもふさわしい場所だ。

 

時間の余裕もあって古書はよいものにめぐりあえた。古書会館内の一階に露店を出している文献書院の特価在庫がよかった。改定版井伏鱒二「厄除け詩集」(昭和52年筑摩書房)、石上玄一郎「発作」(昭和32年中央公論社)等の初版が混じっていて入手する。「発作」所収の「春の祭典」は後年の昭和52年冬樹社版「精神病学教室」にも重複しているが悔いが残らない買い物である。表題作の「発作」は戦前の非合法左翼農民運動で特高警察に検挙された石上玄一郎の実体験が題材になっている。逃亡、検挙、虜囚記、転向という暗い時代の「内的時間意識」が浜口陽三や駒井哲郎の銅版画を彷彿とさせる硬い筆致で描かれている。ちょうど体験的には「死霊」の埴谷雄高と実体験が重なっていることに気がついた。埴谷雄高が獄中、転向の過程で極度な思考の抽象を実験化した結実が日本社会では稀な「死霊」の難解を生んでいる。これに対して石上の「発作」はほどよい抽象と物語の中和というものが図られている。しかし風俗的事象は潔く排除している為に埴谷同様の存在論的非風化を獲得している。こういう暗い光りを発する原石のような作品を慈しむ気持ちは捨てたくないものといつも思っている。

 

 

 


秋から初冬への色調

2013-11-20 11:46:08 | その他

亡妻の7年忌が終えて気分がのんびりした。めったに交流したことがない二人いる亡妻の姉たちが健在な様子でそれも安心する。横浜の小高い丘に住む長女の姉はよい歳になっているのにまだ山歩きやパソコンを楽しんでいる。帰りの急坂を案じてクルマで送った。ついでにその姉のご主人の遺影にお線香をあげさせてもらう。パソコンには旅行や山の写真類をファイルしているようだ。近郊の低山ハイキングみたいな交流サークルで「四季歩会」というサークルがあって、そこにいる年下のお仲間にも活性をもらっているようだ。パソコン画面のデスクトップに「四季歩会書き込み掲示板」のアイコンを作ってあったのが消えてしまったらしい。それでいつも行き詰ったときにリリーフしている青年に来てもらう予定と話している。どれどれと画面を見る。どこかのファイルにまぎれていることは間違いない。しかし探すのも面倒だから「グーグル」で検索したらすぐに現れた。これをアイコンにしてデスクトップへ戻してあげて一件落着だ。亡妻が生きていたら、画面の整頓がちゃんとしていないとその姉や自分にも小言の一言、二言を言う性格を思い出して内心苦笑する。

仕事へ出ている駒場や代々木付近の黄葉はまだ始まったばかりのようだ。自宅の自生した菊を好きな花瓶に挿す。去年七沢温泉の道端で抜いてきた菊が淡いよい色合いの花を咲かせたばかりである。二日続きの休み散歩を考えていたら、よい候補が浮かんだ。年に二度くらい寄り道するJR石川町駅の丘にある横浜市が管理する「イタリー山庭園」である。

ここはいつ行っても閑寂で爽やかな古格溢れる敷地だ。この付近は坂道の枝道が諸所にあって山手の丘へと通じている。旧友青柳君の叔母も米軍軍属一家でこの付近に住んでいてよく遊びに行った馴染みのあるエリアだ。裏日本の低気圧の余波による硬い風が吹き荒れていて庭園の庭木を揺すっている。洋館では刺繍の展示イベントをしていて珍しく館内へ入って調度類を見学してのんびり過ごす。来館者の異国人女子のコスチュームにも秋の色彩が覆っていてその付近に靄っている空気はフェルメール絵画の匂いもする。庭には大きな公孫樹の大木が群立するが、全て黄色く深く染まるにはあと10日を要する気配だ。しばらく窓辺の戸外を眺めたり、庭を歩いてから旧友と伊勢佐木町のカフェで合流することにしてイタリー山を後にする。


映画ハンナ・アーレントを観る

2013-11-13 16:37:12 | その他

日曜日は代々木上原の仕事場を抜けてハチ公バスで渋谷駅に出る。東急本店前を過ぎて終点に近づき始めると例の照れくさくなるようなバスの可愛いテーマソングが流れ始める。「ハチ公バスがワン、ワン、ワン」という繰り返しの反復箇所が好きな旋律だ。ここから半蔵門線に乗り換えること15分で神保町へ到着する。岩波ホールで上映中のドイツ映画「ハンナ・ハーレント」の鑑賞を友人と現地にて約束している。その前に覗いた専修大寄りの古本店にて井伏鱒二の「たらちね」と増渕浩二監修「写真で見るやきもの教室」を購入する。

ハンナ・アーレントはユダヤ系ドイツ人の女流哲学者でマルティン・ハイデッガーの弟子且つ恋人とも称されている。彼女は70年代まで生きていたが、1940年代前期にナチスの追及を逃れたフランスのユダヤ人抑留キャンプからアメリカへと亡命している。戦後はアメリカの大学で教鞭をとっていてわが国でもみすず書房版の「全体主義の起源」は名著として知れ渡っている。この映画はアメリカへ亡命したあと名声を確立してプリンストン大学などで教授をしていた時代に彼女を襲った事件を題材にしている。

その題材は元ナチスの幹部だったアイヒマンが南米の潜伏先でイスラエルの追跡組織に身柄を拘束された事件が発端になっている。アメリカの有名雑誌がナチスの迫害を経験したアーレントをイスラエルの法廷で傍聴させてその特派員レポートに大いなる期待をよせるというタイムリーな企画を組んだ。アメリカにはユダヤ人が膨大な数で暮らしていて、ナチスの悪虐きわまりない戦争犯罪への糾弾を彼女の深い叡智に期待していた。ユダヤ人による新国家イスラエルも同様の期待を彼女に寄せている。各種証人とアイヒマンの「上からの命令に忠実」的釈明応答をもらさず脳裡へ刻んで彼女は帰国した。ところが彼女の論調は静謐で糾弾よりもアイヒマンの悪というものは別に特別なものではなく、凡庸な善人のどこにも潜んでいる根源性に根ざした悪なのだという論点にポイントをおいたレポートをしたためたのだ。

国家や民族について個人との関係を不即不離な一体で考えている人達は激しく怒った。激しい抗議の電話、手紙、投書に回りはビビってしまうが、しかし彼女は引かない。イスラエルにいる痛みを共有してきた親友達とも絶交の羽目になる。凡庸な官吏が指令とあれば大量殺戮だって平気で行う、その人が家に戻ればよき家訓を守って家族を愛する普通の善人と表裏だということを、長い人生で存在についての思索を重ねてきたアーレントらしい主張をドイツ女優のバルバラ・スコバが好演している。書斎の背景もダークな色調が支配していて映像は「内的時間意識(フッサールの言葉)」を物語っている。

しかし憲法学者の奥平康広さんがパンフで云っているようにシブイ、ドイツの郊外にある山荘で戦後のある時期にハイデッガーと再見する箇所はとってつけたみたいで蛇足だとおもった。マルガレーテ・フォン・トロッタ女流監督もハードな直球に少しロマンティックな潤いを付与させたかったのかな?それにしてもこういう構築的な映画はやはり日本映画の新潮流の外し映画とも一味違う知的問いかけを真っ向から我々に強いるもので、精神の弾力の違いを見せらる感が強しである。映画を終えてからは近所の「きっさ こ」でしばしクリス・コナーが「アイ・ラブ・ユー・ポギー」などを歌っている大好きな「ガーシュイン・ソングブック」などを聴きながら美味い焙煎コーヒーをすする時間がもてることで映像と音楽の二重至福を味わう日曜日になった。


安納芋をかじりながら。

2013-11-06 21:40:24 | 

古本祭りで神保町の桜どおりに出店していた地場産コーナーで売っていた断面の発色が強い蒸かし芋を買ってみた。ちょうど92歳の母親の面会を控える前日だ。これを土産にと思った。古典サツマイモの改良品種で甘みが格別強い安納芋という種類である。施設の母親はやっとのことで生きている様子だが、小さなこの蒸かし芋とコーヒー缶を持参して、ちょうど10時のおやつタイムに与えたら、いつもの面白くなさそうな顔をしながら「美味い」といってくれた。昔風のホクホクした金時芋が自分は好きだが、残しておいた一本を帰宅してからお茶請けにしてしてみた。屋久島産の荒い煎茶を益子の好きな椀で飲みながらこの安納芋を食べてみた。

食しての印象は芋の現代的流体繊維化という語を思い浮かべる。甘い甘いマッシュポテト味がする。顎が退化して発音のイントネーションがソフトにくぐもっている優しい現代少女の味覚にマッチした味なのだろう。芋は世につれ、世は芋につれという味がして変な感心に浸ってみる。

神保町の駄本漁りは面白かった。交差点横の広場のブースでハードケースに入った昔の筑摩版太宰治全集を揃いでポンと買っている20代前期の美女が隣にいた。太宰治という作家はやっぱり風化がない世界にあるのだと昔の影響圏で育った団塊爺さんは確信する。当世風文庫本や電子書籍で接しないという毅然としたその美女の佇まいは古本祭りのよい点景として記憶に残りそうである。

昨年他界した吉本隆明は東工大の学生だったころ太宰治を訪問したらしい。そのときの太宰が吐いた言葉を吉本隆明は終生の箴言として心の中に格納していたようだ。世の中が嫌でたまらない太宰は吉本に茶化しめいた言葉を連発しながら「君、男性の本質はマザーシップだよ!その無精ひげを剃りたまえ」という飛躍に満ちた言葉で本質を語ってくれたという一文をふと思い出す。

しかし古本祭りで買った昭和25年大阪創元社で発行した「映画手帖」という変形新書は面白い。カバーが欠けた本が白山通りの映画に強い古書店では500円で売っていたが、カバー付きが古書会館横の路地裏では210円だった。女優ジーン・シモンズの格調に溢れた表紙があるとないでは大違いだということを理解できる人は真の古書通である。

京大映画部が執筆した映画理論は通史としても原理論としてもかっての講座派マルクス主義者の書いた経済学や歴史学の著作物に通じる精緻な教養と言語的共通文脈を感じる。この本には昭和25年時点の有名俳優の住所録が記載されている。今だったらとても個人情報として許されない内容の住所録だがなんだか面白い。あの原節子が当時住んでいたのは、小田急線の東京府北多摩郡狛江村岩戸であったり、三船敏郎は横浜市磯子区中原だったりする。その付近の景色をおもい浮かべて往年のスターが颯爽と田舎めいた街路を歩いていたことを想像することもやはり映画的想像力の一環なのではないかと煎茶をすすりながら収穫物を開いているところだ。