Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

金木犀の香り

2014-09-28 18:19:38 | その他

三日前の晩には微かだった金木犀の香りが今朝はそこかしこに漂っている。気がつくと公営住宅のコンクリート壁を囲っている東側の植樹帯になっている金木犀が一斉に開花して秋の朝日を浴びている。目の前にある専用庭を隔てた公園と遊休地の合いの子みたいな空き地の左右にも金木犀の大木が立ちはだかっている。

この季節は風向きがちょくちょく東風になったり、南風になったり季節というものを微調整しているせいか、その香りはどこからでも回り込んできて気分を和らげてくれる。座間の陋屋で金木犀を吸いこんで、コーヒーを飲み、朝日を浴びてから月1のシニア婚活パーティーの司会バイトへ出かける。本日の路線は下北沢経由の京王井の頭線を選ぶ。参加者は160名。最高齢の女性は杖と補助カートをひいた70代後半とおぼしき女性だ。

「テレ朝BSジャーナル」取材チームも高齢化社会を迎えた日本人の愛や性の浮遊動態をさぐるべく、相変わらずインタビューやカメラを重ねている。先月、気になった際立ち女性の出欠予想はやはり自分の現象学的「世界・内・存在」分析が効いていて予想通りの欠席だった。観察力の錆がないことを納得し、自分を含めた漂流するシニア層の心にうごめいている孤独の襞でも観察してみようと思って、この司会バイトをいま少し続けることにした。座間へ帰宅後の夕飯は東武ホテル「竹園」の昼に食べた辛い「坦々麺」が重かったせいか、酸味の強い葡萄で紛らわせることにした。


うれしい和菓子週間

2014-09-24 19:46:26 | 

座間にある旧同潤会アパートに似た陋屋の専用室でオーソドックスなジャズを聴きたいという希望の友人が、この二週続いた9月の連休期間に数組訪れてきた。その中にはオーディオキャリア的には遥かに格上の古い知己もいる。そうした友達が連れだってきてお世辞が半分かもしれないが、しみじみとこちらの選曲に耳を傾けてくれるのはやっぱり嬉しいことだ。

好きなユタ・ヒップやビル・エバンスのピアノ、ラス・ガリンのバリトンサックス、デフランコのクラリネット、スコット・ハミルトンのテナーサックス等を流しながら好きな話にうつつを抜かすことは昔からそんなに変わらない。いつもの格上オーディオ友人のSさん、Hさんが「ござ候(そうろう)」の今川焼きという定番の手土産をお茶請けに持ってきてくれた。こちらもあちらも酒を嗜むという幸福がないことを知っての気遣いである。

これを皮切りに、示し合わせたわけではないのに厚木近在のOさん、Iさんは本厚木の老舗の「わらび餅」という粋な逸品。都内に住む親しいご夫婦は、松江桂月堂の「薄小倉」、九州・小倉「湖月堂」の「栗饅頭」、妹夫婦は「さぬき和三宝入り 生姜くずゆ」いずれも秋の日本らしい細やかな味覚品ばかりが並ぶ。

湖月堂の「栗饅頭」などはそのご夫婦が新宿・高島屋に掛け合って東京でも販売するようになった曰くのある素晴らしい白餡と栗の和合したお饅頭で昔からの好物だ。どれも気が効いた少量品なので持てあますことがない。

お彼岸の仏壇に供えてからおろして食べ初めている。雨模様になった今夜は出雲・松江産という「薄小倉」を齧ってみる。関東地方で称するところの「石衣」の外皮砂糖を更に繊細に薄く覆わせた小さな小豆菓子だ。「きんつば」をもっともっと洗練するとこうなるという味になるのだろう。ほんの数センチという小柄な小豆菓子が噛みしめて味わうと充足感に満たされる不思議を体験する。出雲地方の茶道と菓子の凌ぎあいの水準が高いことを象徴する初めての和菓子だ。自分で食べることはなるべく控えて10月初旬に93歳を迎える母親への差し入れをして、その品評を聞くことも面白いと思っている。


外食に飽きて旬の秋刀魚

2014-09-20 20:56:31 | 

週の前半はどうしても外仕事に関係して外食が重なる。最近、よく通っている食堂はJR成瀬駅北口にある「熱烈中華・日高屋」ここでは「ニラレバ定食」が定番だ。町田・中町の「弥生軒」の「サバ塩焼き定食」座間駅前の「東秀」ここでよく食べるのは「麻婆豆腐丼」、自宅近くの246西原交差点にある「かつや」では80グラムの小さなロースかつを卵でとじた「かつどん」の「梅」がお気に入りだ。一昨日は高島町と戸部に挟まれた一角の「バーグ」という人気カレーショップで「ハンバーグ乗せカレー」というのを食べている。いずれも480円から850円の価格帯のものばかり、どれも超美味いわけではないが平均的独居者の腹を満たしてくれる献立で重宝している。

 

こんな瑣事を書くのも松本 哉(はじめ)さんの「永井荷風 ひとり暮し」という面白い本(朝日文庫)を最近読んだからである。荷風は昭和34年に千葉県・市川市の今でいえば本八幡駅に近い自宅で亡くなっている。享年79歳、戦後移り住んだ市川についての記述は荷風日記にしばしば登場するが、荷風は都合13年間市川に暮らしていたことになる。昭和34年といえば自分は12歳!

まだ小学生だった。兄弟も多く親が極貧状態でお小遣いももらえる状況ではなかった。そこでお小遣い銭欲しさに近所にある朝日新聞の専売所で夕刊の新聞配達を始めていた時期だった。横浜の中村川には国道16号に沿って数多くの橋がかかっている。吉野町という鎌倉街道の交わる交差点を自転車でスタートして天神橋まで移動する。

ここからは肩掛けベルトに新聞の束を支えて徒歩乃至は駆け足で配達をする。たしか磯子区の滝頭が担当地区だった。想い出といってもはるか薄い残像の骨格みたいなものしか残っていないが、どこかの飼い犬に膝を噛まれたこと。当時、飼い犬として流行っていて、今は滅多に見かけることがないスピッツをみると今でも憤怒が湧いてくるのはこうした幼児体験に負っている次第だ。これは今でも小さな傷跡が残っている。また配達の後半に出くわす闇がたちこめた「横浜市立万治病院」という昔風表現で称する「避病院」(腸チフス、赤痢、コレラ等の伝染病患者を収容する)があった。ここの廃屋病棟の傍らを通り抜ける恐怖感、これは怖がりな小学生に毎日襲いかかるけっこうな試練だった。

荷風の卒倒死、樺美智子さんの60年安保闘争における圧死事件等もこの夕刊配達時代に知った出来事である。一面の全段抜き記事の大見出しをみれば小学生の目にも大事件が起きたことくらいは分かるものだ。二年間ほどそのバイトをしたが成果は駆け足がすばらしく早くなったことくらいで学業の方は相変わらず低迷していた。一番、みっともなかったことは極貧状況にあった母親が、自分の配達アルバイト代の微々たるギャラを専売所の社長さんに前借に来たということだった。怒るに怒れない悲しいだけの事件だったが。人間は我慢を仕舞い込んで生きて行く存在だということを知ったのこの頃だったようだ。

松本さんによれば、浅草へ行けなくなってしまった最晩年の3年間、荷風は市川にある近所の「大黒家」で毎日「かつ丼」を食べていたらしい。浅草へ通っていた頃は雷門の「尾張屋」でこれまた来る日も来る日も「かしわ南蛮蕎麦」を定期食にしていたとある。これは新藤兼人監督が岩波の「図書」に書いた文章でも拝見したことがあった。毎日、同じものを食す癖を持たない自分が荷風の晩年のような身体の自由が効かなくなった時のことをふと想像する。

月に数回程度食べる「かつや」の「かつ丼・梅」が毎日だったら困るな等と読後の感想を抱きながら、本日はよく太って艶やかな旬のサンマを「青葉・食彩館」で購入する。一匹120円。これの塩焼きに久米納豆の「おくら」和え、大根の味噌汁、大根、キュウリ、みょうがのサラダ等を自炊する。外食、自炊を繰り返しながら一歩一歩、年を経てゆく秋めいた夕暮れである。


秋の大掃除そしてジャズ

2014-09-15 18:54:44 | その他

今年の真夏は北側のオーディオ部屋の換気に気を使った。九月下旬は座間へ引っ越しして丸二年目の節目を迎える。いつもしめきって音楽に浸る時間以外は空気が滞留してしまう部屋の欠点はカビが生えやすいことだ。部屋を占拠している古本とレコード類はカビの親戚みたいなものだ。梅雨の6月にはやはりカビが発生した。スピーカーや大きな机がカビに覆われて愕然とする。時々、咳込むことがあるのもカビアレルギーのせいではないか?と疑って朝の1時間は必ず窓を開け放つことで真夏を通過した。おかげでカビはなんとか対策できた。

しかし二年間の怠惰による部屋のガラクタ類は其の後も放置。連休の末日は都内にもでかけることがないので、庭のオシロイ花、小笹、毒ダミ等を駆除する。オシロイ花の強い繁殖力には二年間悩まされてきた。明け方の薄明に開く赤い花の風情は素晴らしいのに地中を張り巡らす芋のような根茎のふてぶてしさにいつも落差を感じる花だ。秦野の山で抜いてきた山吹の根っこにも正式の盛り土などして九月の強めな残光を楽しむ。

 

お隣からはみ出している「ムラサキシキブ」の枝もちょっぴり剪定してこれを故人になった黒田先生の信楽壷に挿して南側の窓辺を彩ってみる。庭の雑草取りにかまけること二時間、次にオーディオ部屋のCD分類、本、雑誌類の整理をしていたら時計は午後2時を回っている。やっとさっぱりした秋晴れの祝日である。

片付いて気分が良くなった部屋では1952年というジャズ年代的には当たり年のSP音源のCDを楽しむ。ビリー・ホリディーの「レディ・イン・オータムン」というノーグラン時代のベッドサイドのヌード背姿イラストで有名なSPレコードをポリグラムで発売したリマスター2枚もの。もう一枚はバディ・デフランコのMGM録音(ヴァーブLPタイトル名「GONE WITH THE WIND」)どちらも文句なしの傑作で深い感動を受ける。

ビリー・ホリディはJATPオーケストラがバックのものと、オスカー・ピーターソン、バーニー・ケッセル、レイ・ブラウン、JCハード等を従えたコンボ編成ものを収録。習性のせいかいつもながら、コンボ編成で歌うビリーのとてつもない哀調と根深い倦怠のトラックを彷徨することになってしまう。「想い出のたね」「ストーミー・ウエザー」「ニューヨークの秋」歌にもバックにもこれ以上の技巧を望むことがない1952年という完全なジャズ的現在である。クラリネットジャズでいつも即興の変幻自在テキストを教唆する永遠のジャズメンがデフランコだ。

現代アメリカにはアナット・コーエンという凄腕の女流がいるが、デフランコの早すぎるモダニズムにはまだ及んでいない。「ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス」「ストリート・オブ・ドリームス」「キャリオカ」。平井常哉さんのライナーによればデフランコの「奔放華麗なソロ」を評してMGM原盤の英文解説中には「次々と繰り広げられる想像力に溢れた即興演奏が小鳥のように飛翔する」と引用がある。デフランコのソロはアルトのチャーリー・パーカーに比肩されることが多いけど、いつも聞いて思うのは青空に屹立するポプラの高い梢の上で比類なき囀りを歌う天界の「ホオジロ」にも肩を並べることができるアーティストがパーカーでありデフランコであるということである。

 


山びるのこと

2014-09-07 20:18:47 | 自然

伊勢原に住んでいたころ、あの吸血性環形動物、山びるには三回対面している。ナメクジを細身にしたような形をしていて色は赤黒い。これは始末に負えなくてタヌキ、鹿、イノシシ等の人里近い山野に住む野獣から血を吸うのが役割だったものがこの20年くらいは人間の被害もどんどん広がっている。この山びる、最近では人家の庭にまで進出しているようだ。特に丹沢の東側に増えていると聞いている。

自分が一度、吸われた時は樹木がたくさん繁っている日向薬師にあった庭の上方からふわっと舞い降りて下半身へ移動していつのまにか、足の脛付近に張り付いていた。ライターの火を浴びせてもそうは易々と離れなかったことを思い出す。データブックによると1分間に1メートルくらの移動速度があるらしくけっこう動きは速い。この山びるを退治するのは古典的に塩を撒くのが一番効果的だ。やはり山びるもナメクジの仲間である。七沢にある県立公園ではハイキングのスタート地点あたりに塩水製スプレーを用意して注意を呼び掛けている。

昨日は珍しい場所でこの山びるに出くわした。鶴巻温泉にある「弘法の里湯」の脱衣所の中である。若いハイカーの学生がすでに足首をかじられていて血が滲んでいる。血は止まっているが、温泉にこれから入るという矢先に其の学生のズボンから山びるがポロリと転がってうごめいている。そのうごめき方は釣りの餌だったら見慣れている「ゴカイ」などと同じような身のくねらさせ方をしている。腹いっぱい血を吸っているからその山ビルはコロコロと肥大しているではないか。アイフォン等の指反応にはとても敏速な学生がノロノロと対処を素早くしないものだから、受付で塩をもらってくるか、または包んで始末してきたほうがいいよ!と指示する。学生は後者を選んで事態は納まった。

このまえはハイカーの裾にまといついてきた山びるが、バスの床を這ってバス運転手に噛みついたという話を聞いたばかりだ。寛ぎの温泉脱衣場にまで山びるが現れるなどの事態は想像したことがなかったが、それが現実になっている。週末はハイカーが立ち寄るこの温泉に山びるが潜んでいないかどうか、チェックして入館するような注意書きが張り出される時期もそう遠くはないなと思った。代々木公園、ここの植樹帯の脇では昔、よくトランペットの自習をしていたものだ。今のマラリア風「デング熱」のことなど考えてもみなかった。そうしたことからも類推できるように、亜熱帯化、じめじめ風土が促進している日本の都会の庭先に山びるが居つくようになったら困るなと思いながら、本日は秦野の山で抜いてきた山吹の根っこを専用庭に植え替えている。