Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

誕生日・神保町・ライブ

2013-05-30 17:04:34 | JAZZ
29日は関東地方も早々と梅雨入りしたらしい。巣作りしたツバメが雨模様の曇り空を盛んに低空飛行している。街路の片隅に植樹されている紫陽花の花もうすっらと色づき始めてきた。あいにくの天気だが富士通コンコードジャズフェスという冠協賛のついたライブが神田・岩本町にある「Tokyo TUC」にて夕刻から行われる。総勢6人のベテランジャズ友と合流する約束になっている。しかしせっかく都心に出るのだから、直前の時間帯を近くの神保町散歩で過ごすことに決める。友人の申し出は有り難いことに自分の30日誕生日を事前に祝って昼食を奢ってくれる事だ。そしてライブ見学同行も兼ねている。

それなら好意に甘えて靖国通りにある「ランチョン」の洋食ランチが食べたいと図々しく事前電話にてお願いしてあった。近所の古本屋を数軒と「版画堂」等お気に入りの店を廻ってから「ランチョン」の大きなサイズの「ビーフカツレツ」と酸味ソースのパンチが効いた「イタリアンサラダ」を食して満腹になる。カツレツを囲んでいるデミグラソースがオーソドックスで美味いこと。カツと衣の間に挟んでいるチーズが溶けて独特な風味を作っているのが「ランチョン」のその昔から続く「ビーフカツレツ」の持ち味である。


友人に奢られぱなしでは気が引けるものだから食後のコーヒーを高級バージョンで返すことにする。駿河台下「古瀬戸」の炭火焙煎である。こちらの陶器で作った人形や花器の類は大人の憂愁性とメルヘンの溶け合う楽しげなディスプレイが多い。駿河台の繁りはじめたプラタナス等の街路樹を覗く窓辺で、腕を伸ばした灰釉の立像等を眺めていると、自分まで心で伸びをしたくなるような逸品である。ここのコーヒーはいつ飲んでも崩れることがない神田界隈で一番といえる味わいである。初めて訪問した友人も十分に満喫した様子である。


岩波書店(信山社)ビル横の古本屋の店先でゲットした尾崎一雄の超がつくような珍しい単行本は捨て値みたいな400円。郊外新興地のブックオフなどでは絶対にありえない神保町の魅力的収穫事例である。コーヒーを啜りながら熊谷守一のシンプルで奥深い植物の挿絵にしばし見惚れる。

散歩後の日暮れから始まった「TUC」のライブは大いに盛り上がる。地下店舗には100人位のジャズファンがビッシリだ。グラント・スチュアートの生演奏に接することはこれが三回目だ。ハリー・アレンはこれが二度目の見聞である。グラント・スチュアートの音は低い音程のゴリッとしたブロウにますます磨きがかかってきている。ソニー・ロリンズから大らかな前時代っぽい間伸び模様を省略したようなスタイルに喩えることができるだろうか?現代ハードバップ奏法の極致みたいな凄みが押し寄せてきていつも唸ってしまうサウンドである。ハリー・アレンのテナーはグラント・スチュアートよりも若干音調は軽い。しかし最近は音の端っこのほうでイリノイ・ジャッケーみたいなテキサステナー調の野太い破調なフレーズも顔を覗かせて芸域が広がってきた。しかし美しく豊かな低音の膨らみはまったく健在である。

このクインテットでは2テナーによる両人の丁々発止のプレイとジェフ・ハミルトンを核にしたトリオのドライブ力に満ちたリズム陣によるインタープレイが聴き所だ。よくジャズはリズムが要というが、毎度のことながらジェフ・ハミルトンのドラムはなんでこんなにスピードがあって繊細なのに強烈なビートが渦巻いているのだろうか。毎度毎度、そのリズムアートの精緻に唖然とさせられている。テナー・マドネスの演奏曲には、あのジョン・コルトレーンの名演で馴染んでいる「グッド・ベイト」やミュージカル曲の「今宵の君は」などが取り上げられた。どれもこれも血湧き肉踊る現代ジャズの到達地点を証明するような素晴らしい演奏が堪能できた。

サクランボのジャム作った

2013-05-27 08:18:16 | 
先日、伊勢原の郊外にある大きなヤマ桑の木になっている鈴なりの実をもいできた。ジャムにでもしようと思ってネット記事を泳いで参考にした。長野県在住の女性のブログが丁寧に日本らしい季節感を活かした手作り食の優れたレシピをいつも披瀝していている。その女性の数年前の記事に桑の実ジャムの文章が載っていた。これを参考に枝ごともいできた桑の実をジャムにしようと意気ごんでみたがあえなく頓挫してしまった。女性が穏やかな筆致にて諭しているように桑の実ジャムは下ごしらえが手間仕事だ。黒いへたをジャムにするくらいの量を外すわけだから、これはラッキョウのへたとりにも劣らない難行仕事になってしまう。雑事に追いかけられている時期だったもので気持ちの切り替えができずにあきらめてしまった。黒ずんで熟した桑の実は毎朝専用庭へやってくる雉鳩や雀が啄ばめるように片隅に積み上げてやった。

これに懲りた筈なのに、今度は真っ赤に熟したサクランボの鈴成りを見ていたら、いつもトーストで使うアオハタや明治屋の定番「マイジャム」以外のものが食べたくなった。一つサクランボのジャムでもと思って、自生する酸っぱそうなサクランボを庭の持ち主に許可してもらって持ち帰ってきた。園芸種だから甘みなどあることは期待できない。しかし果皮の赤色はちょうどよい照り具合だ。ジャムにするにはよい頃合である。さっそくネットを泳いだら先達さんの優れ参考レシピが満載している。洗って下拵えする。へた取りは自然に剥がれるので苦労はしない。しかし今度は種を実から取り除く苦労が待っている。ひたすら便利を追求してきた戦後社会で、身近な日本のスローフードが面倒臭い手仕事ゆえに廃れていく様子がなんだかよくわかる。

小さな瓶が1個程度の量だと思って種取りを無念夢想で行う。サクランボが500グラム、砂糖500グラム、レモン汁はレモンの半切れ位を絞る。ネット解説によるとサクランボにはペクチンという凝固成分が少ないらしい。アク取りも丁寧にせよとのことだ。この2ポイントを守ることにする。夜勤明けの開放感に浸って読書する傍ら、焦がすことを注意しながら煮詰めてみる。心配していたサラサラにはならないで上手く固まってくれた。しかしあれだけの原料で歩留まりの悪いこと。明治屋の「マイジャム」の小瓶が1個半という苦労の成果だ。冷まして瓶に収めてから昼のトーストに使って賞味してみる。味の方はどうだろうか?イチゴやオレンジのジャムと比較した味は、果実が放つ香りなどの個性が今一歩淡く抽象的である。しかし色栄えが素晴らしい。トーストに塗って食べながら思った。これは季節の色というものを食しているのだということを。

湯河原の空気と音

2013-05-26 14:37:48 | その他


1ヶ月ぶりに彫刻のMさんを友人2名と連れ立って訪ねる。横浜在住のトーシロー氏と秦野在住のN氏らを平塚駅北口で運転係の自分が拾うことになった。国道1号経由の135号を辿る非高速道路コースがいつも得意な路線になっている。平日のせいか海沿いの真鶴駅付近まで平塚から所要1時間もかからないくらい空いている。大磯町、二宮町、国府津等付近のカフェや食べ物屋さんについては自分もN氏もよく遊び歩いたせいか知っている。本日は目的地が絞られているので寄り道はできないが、それらのショップについて通過する際に短評をお互いに披瀝していたら、小田原の東海道箱根口の手前にあっというまに到着してしまった。

「K」という食堂兼居酒屋にて早い昼飯を済ませる。鯵、鰹の刺身盛り合わせと野菜かき揚天ぷらのセット定食を三者とも食べる。味は普通ながら、回転効率を意識しすぎたパートさんの食器片付けが早すぎる。まるで追い立てられているみたいだ。口によるお愛想と手が逆方向を向いているようでそのしぐさは悪しきタイプの小田原人を物語っているようだ。至近にあるお堀端の蕎麦店とは段違いの人品である。

南町付近のお屋敷通りには下曽我に在住していた尾崎一雄の古いしもた屋が移築された文学記念館もある。戦後の世田谷などの中流家屋にも共通する質素で上品な香りを放っているその家を、坊ちゃん出身のN氏などがみれば、きっと喜ぶ筈だが時間が足りないのでパスしてMさん宅へと急ぐ。Mさんとは前回の訪問時にお土産のアナログLPを約束していた。グラモフォンのピエール・フルニエが弾くブラームスのチェロソナタ集、チェコフィルが演奏するドボルザークのスラブ舞曲集などを6枚ほど持参する。どれも初期盤という配慮した土産である。

独居暮らしのMさんを取り巻く数匹の野良猫は健在、眼下の相模湾はよく晴れて蒼く凪いでいる。崖沿いの雑草に紛れる大粒の真っ赤な蛇イチゴ、南西の海風に混じって香る廃園風の庭の木立に絡まるジャスミン、どこに眼を転じてもラフな海辺の生活には5月らしい幸福の事物が点在しているではないか。居間の壁を彩っている絵画なども模様替えしたらしく、油絵が増えている。大型のスピーカー二種ををいつもどおりにしばらく楽しませてもらう。トロッとした囁き系のボーカルなどにここしばらくは耽溺しているトーシローさんには酷かもしれないが、大らかなMさん好みの克明に迫る音を了解してもらう。

Mさんは仕事時間にはラジオも楽しんでいるということで、ラジオ風のスピーカーのデザインを愛でていたときに、ペアの小型スピーカーが隠れるようにあった。ボーカルだったら小型がいいね。などと会話していた時だからまさしくグッドタイミングであった。あれは生きているのかと質問したらM氏の答えが返ってきた。北欧のダリの箱を利用した8インチのドイツ製励磁型スピーカーでたまに聞いているらしい。それも70年以上前のレトロ品ということだ。サランネットを外して見せてもらった。ザクセンベルグというフルレンジユニットが几帳面なモダン北欧箱に収まっている。佇まいから判断すれば戦後東独の統治下に所属してしまったテレフンケンのユニットなどと同じようなデザインである。励磁型ではないアル二コタイプの似たスピーカーを持っていてそれが一時期とてもよく鳴っていたことをふと思い出す。

トーシローさんがMさんへ所望したボーカル系のLPが俄然よく鳴り出してしまった。バーバラ・りーのプレステッジ盤「リー・イン・ラブ」等はまさしく水を得た魚みたいに軽やかで親和的なよい情緒を紡ぎだす。音への狭く深い拘りに生きているトーシロー氏の顔にようやく安堵の色が見えたようだ。N氏は半分、居眠りしながら平和な顔になって聴いている。自分は節操もなく大音量にも小型にも適応するものだから、Mさんの抑圧なき再生にどれだけ救われているかわからない。次回は部屋から眺める熱海沖の海上花火大会がある8月3日に再訪しましょうという約束をして、限りなく気分が安らかになる夕暮れの湯河原を後にした。


ハリー・アレンの新譜CD

2013-05-23 22:08:06 | JAZZ
ホーギー・カーマイケルといえば、「ジョージア・オン・マイ・マインド」「スター・ダスト」などアメリカのジャズ曲を代表する超有名曲の作者としておなじみの人だ。テナーサックスのハリー・アレンが「アイ・ウオーク・ウイズ ミュージック ザ・ホーギー・カーマイケル ソングブック」というタイトルのCDを先ごろ発売した。今年の1月に収録したばかりのホヤホヤ新譜である。彼のCDではドイツのナゲルヘイヤーに収録した「バット・ビューティフル」等、駆け出しの時期だった頃の彼にとって入魂且つ畢生の名演をたまに取り出して大音量再生ならではの醍醐味を楽しんでいる。しかしその後の演奏収録したものに接した時、彼のテナー音は高域に湿潤感が欠けているせいか、アドリブ演奏でツボに嵌るべきタイミングに単調でドライな空ぶかし風フレーズが多くてがっかりすることも多かった。

来週の水曜日には神田・岩本町の東京・TUCにてグラント・スチュアートとハリー・アレンという現代版アル&ズートみたいなテナー・マドネスが実現する。前回のグラント・スチュアートの相手はエリック・アレキサンダーだった。このときは頭デッカチな知力優先のモーダル奏法の自慰的迷宮に踏み込まないところにエリック・アレキサンダーがとどまったお蔭で、現代最高水準のスイングするサックスプレイの興奮的極致を目撃することができた。

今回はどうだろうか?ライブを目前に到着したCDを聞いているとよい予感がしてきた。ホーギー・カーマイケルの「ムーン・カントリー」「ニアネス・オブ・ユー」「ロッキン・チェアー」等、好きな曲が満載するCDだ。これらの曲に接する限りバラードやミデアムテンポの4ビートに乗って図太くしかも美しく轟くハリーのテナーは健在である。懸念する空ぶかしもなりを潜めているようだ。当日はアメリカの田舎のロマンティズムを彷彿させるホーギーの叙情曲、「メンフィス・イン・ジューン」とか「スカイラーク」みたいな季節への心情が溢れている掌編を、二人のテナーサックスが情感豊かに綴ってくれないものかといまからワクワクしているところである。

茶碗の景色から

2013-05-22 16:04:07 | その他
伊勢佐木町のミニ陶器市で買った半額で500円の小茶碗を気にいっている。サイズは直径が7センチ強、高さは5センチというお猪口とも湯飲みともとれる微妙な大きさだ。光線の加減で白と思っていたボディーは淡い青緑色がかった乳白色である。

土は高台の円周に垣間見える。明るい信楽系の土のように見える。ボディーを覆っている青緑釉には土に含まれている鉄分が黒子(ほくろ)みたいに点在している。特に見込み側の酸化鉄による黒子の連なりは、イタチや野鼠みたいな小動物が雪の野原に残している足跡みたいな楽しげな景色を作っている。量産窯の中で焼いている途中でこの碗にはどういうわけか、松灰が多めに降り注いだのだろう。

数個在庫していた同じ500円の同一碗をためつすがめつ比較したが、この碗だけがビードロ(ポルトガル語の青緑ガラスの意)被覆が甚だしい。写真を拡大すると気泡の様子までよく見えている。特に高台の裾際は青磁みたいに分厚く覆われている。形は同じものでも、熱や溶媒の成分の偶発性によって左右される陶芸品の妙が図らずも現れているようで、このようなゲテ買いはやっぱり楽しい。逆にこの碗の立場からすれば有象無象(うぞうむぞう)扱いされる大衆的領域の中で、これだけ無銘のポジティブを救抜してくれる変な人物に出会えたということはとても幸せなことになるのだろう。

これを買ったついでに古本屋にて入手した「セント・アイビス展」の昔のカタログを開く。バーナード・リーチの諸作の写真が勿論お目当てなのだが、イギリス南西部にある港町セント・アイビスに集散離合したモダンアートの画家たちによる「悲しみの港」風諸作に心を奪われる時間帯を迎えている。

ロジャー・ヒルトンの「踊る女」は1962年の作品らしい。口論なのか、痴話喧嘩なのか、滞仏中に喧嘩した妻が裸のままべランダに飛び出して奇語を発した事件をモチーフにした伸びやかな絵だ。これを知った屋外の火事場見物をしていた群集の視線が裸体の方へ瞬時に切り替わったという奇天烈!な解説挿話が入っている。

クリストファー・ウッドの「漁夫の別離」は底深い哀愁の漂う絵だ。その肖像はセント・アイビスの名を高めた画家ベン・ニコルスンと妻をモデルにしているとのこと。入手した茶碗に八女茶を注いで、これから夜半にかけて素朴海洋画家だったアルフレッド・ウオリスの帆船絵画の諸作品、火事の事故死にあったバーバラ・ヘップワースの抽象オブジェでも丹念に眺めてみようと思っている矢先である。