視人庵BLOG

古希(70歳)を迎えました。"星望雨読"を目指しています。
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シーボルト日本植物誌

2007-12-18 06:11:05 | 読書
シーボルト日本植物誌 (ちくま学芸文庫 カ 26-1)
大場 秀章
筑摩書房

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 ポタニカル・アートが好きなので(といっても植物名を覚えている訳ではない)電車の中でパラパラと視ようかと思って買った本。
しかし解説を書かれている大場秀章氏のまえがきを読んで愕然とした。
「シーボルトはこんな情報収集の方法をとっていたのか!?」

 P008

 当時の日本が窓を聞いていたヨーロッパ唯一の国オランダは、かつての東インド会社統治領を植民地化し、利益の 大きかった日本との貿易を独占しようとしていた。また、ヨーロッパ列強が進める植民地への文化政策を、日本で実施しようと考えた。
 鎖国下の日本に科学調査団の派遣は許されない。オランダは、日本における西洋の学問、とくに医学への関心の高まりに着目した。科学的な才能もそなえた医師を派遣すれば、調査と医術の伝授という文化政策も並行して遂行でき ると考え、出島のオランダ商館に派遣する医師にこの役割を課した。閑職であった商館医師が、突然国家施策にもとづく特別な職へと転じたのである。この目的を遂行する一種の植民地科学者として来日した人物こそが、シーボルトだった。
 町医者として開業経験もあったシーボルトは、日本で最初の西洋医学の専門学校、鳴滝塾を設置して、多くの日本人に西洋医学を伝授し、湊長安、吉雄幸載、美馬順三、平井海蔵、高良斎などの弟子を養成した。居留が義務付けられていた出島の外の鳴滝に学校を設けることができたのは、特例中の特例である。これは、医学教育が日本側の 要望にも応えたものだったことが大きい。
 シーボルトや、彼を派遣した関係者は、行動が厳しく制約された鎖国下の日本で、どうすれば必要かつ質の高い資料と情報を最大限に入手できるかを、周到に考えた。そこで採られたのが、塾生たちに博士または学位論文を課す方法だった。シーボルトは塾生に、医学以外の分野を含む多様な領域の課題にオランダ語で論文を書くことや資料を提出することを求めた。
 こうしてシーボルトは居ながらにして、日本各地の植物やその他諸事物に関わる情報を集めることができた。鳴滝塾に集った優秀な弟子たちの助力がなかったら、シーボルトの3 部作、『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』のための質の高い情報の集積など望むべくもなかっただろう。
  本書『日本植物誌』でも門人たちの助力に負う部分は少なくない。加えてシーボルトからの依頼に応じた蘭学や本草学の犬家宇田川蓉巷や桂川甫賢、水谷助六、伊藤圭介、最上徳内らの協力も大きかった。彼らの一部は植物についての知識と経験知を持ち合わせており、後述する『日本植物誌』の覚書きに彼らの貢献を多く見出すことができる。

 海外からの知識、技術の導入はそれなりに高いリスクを負うものと理解して、明治政府の「和魂洋才」のスローガンは出来たのか?

 

 

コメント
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