聖書の創世記には、バベルの塔の話があります。
そこで人々は次のように言いました。
そして、バベルの塔を建てますが、ここで神様は、人の言葉を互いにわからないようにし、人を散らされ、この町の建設は中止になりました。
何だか悲しいお話ですが、人の罪を示す大切なお話です。何が神様の御心に適わなかったのか、それを考えさせられます。
人々が考えたのは、さらっと聞くと別にそんなに悪いことのようには思えません。
では、神様の怒りが理不尽なのか? 聖書には、一見するとそう思えてしまうような記述がたくさんありますが、それは違うでしょう。
全知全能の神様が誤っておられることはないし、第一、人を神様に導くはずの聖書が、そんなことを書くことはありえないからです。
人々が言った言葉をよく読んでみると、天は神の御座。そこまで到達しうるという人の驕り、高ぶり、有名になろうという欲望などが垣間見えます。
そして、散らされることのないようにしよう、という言葉は、神様への反抗のように聞こえます。
ここには、謙虚さや従順さなどは感じられません。
産業革命、現代科学…… それは長い間、人間が培ってきた知恵や知識、洞察などに基づいたもの。私たちは、自分たちが作り上げてきたこれらのものに頼って生きています。
日進月歩で、どんどん色々と便利になっていく一方で、どんどん色々なものがないがしろにされたり、破壊されたりしています。
バベルの塔のお話は、古代から伝えられている私たち人間へのメッセージです。あのような驕った思いには、特に気を付けなければならないように思います。
遺伝子操作、原子力発電、そしてリニア開発など、もちろん、それそのものを悪と決めてかかるのは早計です。
でもそこには何か、私たち人間が恵まれ、生かされているという感謝や謙虚な思いが忘れ去られているような気がしてなりません。
ただ自分たちが便利だからとか、もっともっと速く、もっともっと豊かに、などといった果てしない欲望が渦巻いて、自分たちで解決できない歪みを作っているような気がします。
感謝をもって謙虚な気持ちで歩んでいくところに、結局、私たち人間にとって一番の道があるのだと、僕は信じています。
そこで人々は次のように言いました。
さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう
そして、バベルの塔を建てますが、ここで神様は、人の言葉を互いにわからないようにし、人を散らされ、この町の建設は中止になりました。
何だか悲しいお話ですが、人の罪を示す大切なお話です。何が神様の御心に適わなかったのか、それを考えさせられます。
人々が考えたのは、さらっと聞くと別にそんなに悪いことのようには思えません。
では、神様の怒りが理不尽なのか? 聖書には、一見するとそう思えてしまうような記述がたくさんありますが、それは違うでしょう。
全知全能の神様が誤っておられることはないし、第一、人を神様に導くはずの聖書が、そんなことを書くことはありえないからです。
人々が言った言葉をよく読んでみると、天は神の御座。そこまで到達しうるという人の驕り、高ぶり、有名になろうという欲望などが垣間見えます。
そして、散らされることのないようにしよう、という言葉は、神様への反抗のように聞こえます。
ここには、謙虚さや従順さなどは感じられません。
産業革命、現代科学…… それは長い間、人間が培ってきた知恵や知識、洞察などに基づいたもの。私たちは、自分たちが作り上げてきたこれらのものに頼って生きています。
日進月歩で、どんどん色々と便利になっていく一方で、どんどん色々なものがないがしろにされたり、破壊されたりしています。
バベルの塔のお話は、古代から伝えられている私たち人間へのメッセージです。あのような驕った思いには、特に気を付けなければならないように思います。
遺伝子操作、原子力発電、そしてリニア開発など、もちろん、それそのものを悪と決めてかかるのは早計です。
でもそこには何か、私たち人間が恵まれ、生かされているという感謝や謙虚な思いが忘れ去られているような気がしてなりません。
ただ自分たちが便利だからとか、もっともっと速く、もっともっと豊かに、などといった果てしない欲望が渦巻いて、自分たちで解決できない歪みを作っているような気がします。
感謝をもって謙虚な気持ちで歩んでいくところに、結局、私たち人間にとって一番の道があるのだと、僕は信じています。