ひつじっく Style♪

♪シャロンとダニエルの夫婦でアカペラ多重録音♪
雨の日も風の日も晴レルヤ!

主の愛が今( シャロン )

2010年02月19日 | 日記
主の愛が今


主の愛が今あなたを包む

打たれた傷も癒される

主の愛が今あなたを包み

嘆き悲しみ逃げさる

傷ついた主の愛の手が動き

あなたの上にとどまる

全能の主の愛の手が包み

あなたの心を癒される

ひと月前の悲しい出来事から、ほとんど毎日聴いている賛美…
ゴスペルの仲間が私のために歌ってくれました。

3月初め、春の訪れと共に母の残した家に引っ越すことになりました。
ここ2、3年、私たち家族と共に暮らすことを望んでいた母…
とうとう最期までかなえてあげられなかった事が悔まれます

母がいつまでも元気だと思い込んでいた愚かなシャロン…
少し遅くなってしまったけど、お母ちゃんの大切な家に行くからね

引っ越しが落ち着くまで、暫くの間ブログをお休みさせていただきます。
訪問くださっている方々には、再びご迷惑おかけしますがよろしくお願いします

皆さまのところには、できる範囲で遊びに行かせて頂きますね



恵み( シャロン )

2010年02月14日 | 日記
前回の記事から、あっと言う間に10日以上が過ぎてしまい、気付けば母が旅立ってから もうすぐ1ヶ月…です。

なんだか時の感覚も上手く掴めず、ふと、長い夢を見てるのかな?なんて思う毎日ですが、今日は母が亡くなる前の9日間に得た恵みについて書いてみます。

先月の11日、母は自宅の隣の公民館で中高年向けの健康体操に参加していました。
このサークルは20年以上も続けていた母…
仲間の方も長年の付き合いで、年に一回は旅行に行くなどごく親しいお仲間でした。
そこで柔軟を始めて間もなく、「ちょっとしんどいし横になるわ。」と言って休んだ母。
そのうちイビキをかきだしたのを不審に思った元看護士のKさんが救急車をよんで下さり、すぐに運びこまれた病院で [脳梗塞] と診断されました。

健康な状態の母が最後に居た場所は、自分が一番好きだった仲間がまわりに居るにぎやかな場所でした。

そして、母を救急車に乗せてすぐに私の自宅に連絡下さったKさんですが、あいにく外出中やったので妹に連絡して下さいました。
このKさんのお孫さんが偶然にも妹の長男と同級生だったので連絡先を知っておられたのです。
こうして母の病状はまず、妹に知らされました。



妹から連絡を受けてすぐ病院にかけつけた私たち家族…
まだ少し意識があった母の傍に妹を連れて行って
「おかあちゃん、○○が来てくれたよ。」と言った時の母の表情…巧く動かない顔の筋肉を精一杯使って、なんともいえない嬉しそうな顔をしました。
心ならずも疎遠になってしまった妹のことをいつも気にしていた母でしたから…

この時の母の笑顔は多分、一生忘れない…そんな気がします。

ICUを出て一般の個室に移ってからは、妹の子供たちや、ウチの長男や娘、遠方の母の兄妹など、母の肉親が次々訪れ、母のそばで過ごしました。
ずっと元気な母やったので皆で
「リハビリ始めたら、またメチャメチャ頑張るんやろーなー。」
「これを乗り越えたら100歳まで生きはったりして…?」
などと明るい話題で過ごしたものです。

この時母は目を閉じていて眠っているように見えましたが、私たちの会話は聞こえていた、と信じています。

そして、主治医の先生から最悪の事態を知らされた、19日の午後…。
私と妹はすぐに病院に駆けつけ、ずっと母の傍で過ごしました。

看護師さんにお願いして簡易ベッドを借り、狭い病室に3人で…。

「こんな風に3人で寝るのって何年ぶりやろなぁ…」と妹と話しながら、そしていろんな懐かしい出来事や、妹の悲しい後悔など、ふたりで一晩、話し続けました。
もちろん、眠っている母も交えて…

そして翌朝、ダニエルや孫たちが来て暫くしてから危篤状態になり、実家に大切なものを取りに行っていた私が 母の傍に戻るのを待っていたように、ひっそりと息をひきとりました。

本当に、精一杯働き続けて、そろそろ休むわ…と言って眠ったような母…

「あんたらにオムツの世話だけはさせたくないわ。」と何度も言っていた母…

何も苦しまず、静かに、穏やかな顔で逝った母です。

最近、母の遺品を整理していたらここ10年分くらいの沢山の写真が出てきました。
多くは前出の体操サークルのメンバーとの一泊旅行の写真、そして幼馴染みの友人の方たちとの旅行の写真、母の趣味のメインだった詩吟の発表会の写真、孫たちに囲まれたものやウチの家族と過ごした時の写真…など。
どの写真をみても、屈託のない笑顔の明るい母が居て、仕事もいっぱいしたけど、楽しい時間もいっぱいやったんやなぁ…と温かい気持ちになりました。

重度の脳梗塞だった母のような場合、自宅で倒れてそのまま…という例も少なくないと聞きました。

そんな病の中で、妹をはじめ、母を愛する多くの人に会うことができました。
母の最期にいくつかの大きな恵みを下さった神様に感謝です

母が大好きだったこの曲、お正月のカラオケでも張り切って歌っていました。
最近は毎日のように聴いているシャロンです

川の流れのように



家族の原景( シャロン )

2010年02月03日 | 日記
母が突然に旅立って2週間が過ぎました。

今日は母が亡くなる少し前に一緒に観に行く約束をしていた映画[ おとうと ]をひとりで観に行きました。
母の遺骨をそっとカバンに偲ばせて…

映画は、しっかり者の姉と、心が弱くてきちんと生きられず家族に迷惑ばかりかけている、けれどどこか憎めない愛すべき弟との交流を軸にした温かな人間ドラマ…
弟役のつるべさんが上手くて、いい映画でした

最近、実家に泊まる日が増えて妹といろんな思い出話をしています

私が9歳になる少し前に、闘病中だった父が亡くなり私たちは家族3人で暮らしてきました。
美容師だった母は自分の店を持って、懸命に働きながら私と妹を育ててくれました。

その頃に3人で出かけた万博( 1970年に大阪で開催された万国博覧会 )の写真があります。
多分、夏休みだったのでしよう、眩しそうに目を細めてわずかに微笑む私と指をくわえて不安そうな面持ちの妹、そして黒ぶちの眼鏡をかけた母の表情は硬くこわばり、張り詰めた気持ちが伝わってきます。

父親が居なくても、両親の居る家族と同じように、いやむしろそれ以上に豊かに暮らしたい…
幼い私たちにみじめな思いをさせないために、そして自分自身のプライドのために母はパワフルに突き進みました。
仕事第一、そしてお客さん第一…

その頃の母のイメージは、とにかくいつも時間に追われて大変そうだったこと、そして仕事を終えた夜には疲れた顔をしていました。
妹は今でも、母は常に怖かった、と言います。

けれど、そんな忙しい日々の中でも毎日、必ず手作りの夕食を用意してくれて洋服も何着か縫ってくれた母…古い写真の中には妹とお揃いのセンスの良いワンピースなどを着たものも何枚かあります。
本来は女性らしい、愛情溢れる人だったのだと思います。

自分自身、何かに甘えることなく、そして私たちにも甘えを許さなかった母…
私も妹も母に褒められた記憶はほとんどありません…

大人になって、少しは母の本質を理解した私ですが、やはり母への思いには複雑なものがありました。
同年代の人たちから「母親は最愛の存在、大切にしたい」という言葉を聞くと素直にそう思えない自分がとても嫌でした。
ひとりで苦労して育ててくれた母を大切に思えない冷たい自分が…

それでも、晩年、特に仕事を辞めてからの母とはひんぱんに映画や食事、温泉などに行きました。
結構な毒舌だった母とも仲良くしてくれたダニエルと、3人で出かけたりもして楽しい思い出も沢山あります

…今日、映画が終わってエンドロールが流れた時に、隣に母が居ないことがしみじみ寂しくて、いっぱい泣いてしまったシャロンです。