旅路 とまりぎ

いくつかのグループでのできごと(主に旅)

旅路1

2013年03月27日 | 人生

              旅路1

                          とまりぎ

 戦中に伊豆の大島で生れたそうだ。戦時中のことだから大島も危ないので、東京大空襲の最中、船で中央区へ渡った。運良く生き延びて、人形町の菓子屋の二階を借りて住んでいた。

 入学した小学校は日本橋東華小学校。わずか一週間ほど通っただけで、渋谷区千駄ヶ谷へ転居した。そこから千駄ヶ谷の生活が始まったのだが、その年の暮れに日本料理の調理師だった父親が病死で、母親と弟との三人の生活になった。この頃は皆が貧しい時代だったから、それほど苦にはならなかった。父親側と母親側の親戚の収入の少ない若い叔父たちが、次々に同居していたこともあったからだろう。 

 千駄ヶ谷小学校から外苑中学へ通ううちに、中学を卒業したら就職することになった。気のすすまぬ就職だったが、止むを得ない。高校は夜学へ通っていた。恵比寿駅から天現寺橋へ向う途中の渋谷川近くの町工場だ。

 金属加工のヤスリを使い、ボール盤を使い、切断機のシャーを使った。時には近くの溶接工場へも行って、溶接や切断、焼鈍しをやってもらってくることもあった。

 暑い夏のことだった。切断機を使っている時に機械と材料の間に指を挟まれ、翌日工場近くの広尾病院で右手人差し指の爪をとることになった。その後もしばらく爪が生えきるまで、指には力が入らなかった。


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