私の神よ、私の神よ、
なぜ私をお見捨てになるのか。
なぜ私を遠く離れ、救おうとしてくださらないのか。詩22:2
キリストは試練を受けて苦しまれたからこそ、
試練を受けている人たちを
助けることがおできになるのです。ヘブル書2:18
エゼキエル書3:22~27
使徒10:1~23a(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句6/21;水)
イエスよりも、およそ1000年ほど前に書かれた詩篇22篇にはこうあります。
「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠く離れて私をお救いにならないのですか。
私のうめきのことばにも。
わが神、昼、私は呼びます。
しかし、あなたはお答えになりません。
夜も、私は黙っていられません。
けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
私たちの先祖は、あなたに信頼しました。
彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。
彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
しかし、私は虫けらです。人間ではありません。
人のそしり、民のさげすみです。
私を見る者はみな、私をあざけります。
彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。
彼に救い出させよ。
彼のお気に入りなのだから。」(詩篇22:1~8新改訳)と。
そして、およそ1000年ほど後のこと、イエスは、人々のあざけりと嘲笑の中で十字架に架かられたのだそうですが、
道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言ったのだそうです。
「神殿を打ち壊して三日で建てる人よ。
もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」と。
祭司長たちも、律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言ったのだそうです。
「彼は他人を救ったが、自分は救えない。
イスラエルの王だ。
今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
彼は神により頼んでいる。
もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがよい。
『わたしは神の子だ』と言っているのだから」(マタイ27:39~43)と。
イエスは、このように、神に見捨てられる経験をした方なので、
試練の中にあり、神の沈黙の中にあって苦しんでいる人を助けることがおできになる方なのだそうです。
私たち、天の神、主から、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「わたしたちが一つであるように、彼らも(わたしたちと)一つである」(ヨハネ17:21~23)ようにと願われ、造られていながら、
その、天の神、主との一つの場にとどまることをよしとせず、もっと高くなろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になった(創世記3:5、22)人間、
天の神、主に対抗し、背く者なのだそうです。
それで、天の神、主はエゼキエルに言われたのでしょうか。
「『神である主はこう仰せられる』と言え。
聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。
彼らが反逆の家だから」(エゼキエル3:27)。
カイザリヤにいた、神の民イスラエルに属していない、ローマ軍イタリヤ隊の百人隊長コルネリオ。
彼は、神のことばを聞きたいと願い、御使いの示しを受けて、ヨッパにいるペテロを招くため、部下を遣わしたのだそうです(使徒10:1~23)。
私たちの身代わりとなり、私たちの反逆の責任をご自身に負って十字架刑での処刑を受け、
「神に見捨てられた者」(マタイ27:46)となってくださったイエス。
墓に葬られ、三日目の日曜日の早朝、死者の中から、新しい霊のからだによみがえり、
40日間、弟子たちに何度も現れて神の国のことを語った後、
オリーブ山から、弟子たちのみている間に上げられ、雲に包まれて見えなくなり、
〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。
そのイエスが派遣してくださるもう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方。
〔父である神〕は、この方を通して、受け入れる者の心に、ご自身が、一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。
この、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る〔父である神〕の御思いに聞いて、
御思いのとおりに出て行く者にしていただきたいですね。
今日も。
イメージ 1
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なぜ私をお見捨てになるのか。
なぜ私を遠く離れ、救おうとしてくださらないのか。詩22:2
キリストは試練を受けて苦しまれたからこそ、
試練を受けている人たちを
助けることがおできになるのです。ヘブル書2:18
エゼキエル書3:22~27
使徒10:1~23a(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句6/21;水)
イエスよりも、およそ1000年ほど前に書かれた詩篇22篇にはこうあります。
「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠く離れて私をお救いにならないのですか。
私のうめきのことばにも。
わが神、昼、私は呼びます。
しかし、あなたはお答えになりません。
夜も、私は黙っていられません。
けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
私たちの先祖は、あなたに信頼しました。
彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。
彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
しかし、私は虫けらです。人間ではありません。
人のそしり、民のさげすみです。
私を見る者はみな、私をあざけります。
彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。
彼に救い出させよ。
彼のお気に入りなのだから。」(詩篇22:1~8新改訳)と。
そして、およそ1000年ほど後のこと、イエスは、人々のあざけりと嘲笑の中で十字架に架かられたのだそうですが、
道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言ったのだそうです。
「神殿を打ち壊して三日で建てる人よ。
もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」と。
祭司長たちも、律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言ったのだそうです。
「彼は他人を救ったが、自分は救えない。
イスラエルの王だ。
今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
彼は神により頼んでいる。
もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがよい。
『わたしは神の子だ』と言っているのだから」(マタイ27:39~43)と。
イエスは、このように、神に見捨てられる経験をした方なので、
試練の中にあり、神の沈黙の中にあって苦しんでいる人を助けることがおできになる方なのだそうです。
私たち、天の神、主から、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「わたしたちが一つであるように、彼らも(わたしたちと)一つである」(ヨハネ17:21~23)ようにと願われ、造られていながら、
その、天の神、主との一つの場にとどまることをよしとせず、もっと高くなろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になった(創世記3:5、22)人間、
天の神、主に対抗し、背く者なのだそうです。
それで、天の神、主はエゼキエルに言われたのでしょうか。
「『神である主はこう仰せられる』と言え。
聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。
彼らが反逆の家だから」(エゼキエル3:27)。
カイザリヤにいた、神の民イスラエルに属していない、ローマ軍イタリヤ隊の百人隊長コルネリオ。
彼は、神のことばを聞きたいと願い、御使いの示しを受けて、ヨッパにいるペテロを招くため、部下を遣わしたのだそうです(使徒10:1~23)。
私たちの身代わりとなり、私たちの反逆の責任をご自身に負って十字架刑での処刑を受け、
「神に見捨てられた者」(マタイ27:46)となってくださったイエス。
墓に葬られ、三日目の日曜日の早朝、死者の中から、新しい霊のからだによみがえり、
40日間、弟子たちに何度も現れて神の国のことを語った後、
オリーブ山から、弟子たちのみている間に上げられ、雲に包まれて見えなくなり、
〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。
そのイエスが派遣してくださるもう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方。
〔父である神〕は、この方を通して、受け入れる者の心に、ご自身が、一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。
この、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る〔父である神〕の御思いに聞いて、
御思いのとおりに出て行く者にしていただきたいですね。
今日も。
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