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朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

黙って、されるままに、好きなようにさせてくださって

2017-03-21 08:14:37 | 聖書から
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、
多くの痛みを負い、病を知っている。イザヤ書53:3

 ピラトは、
暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを
要求どおりに釈放し、
イエスのほうは彼らに引き渡して、
好きなようにさせた。ルカ23:25

 ヨブ記7:11~21
 ルカ19:41~48(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/21;火)

 〔神の独子(ひとりご)〕であられる方が、人間イエスとして人の世に肉体をもって来られる700年ほど前、〔父である神〕は、アモツの子イザヤを預言者として立て、冒頭の言葉のように、預言しておられました。

 預言の言葉はさらに続きます。
「彼は、人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かっていった。
しかし、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
私たちのすべての咎を彼に負わせた。

彼は痛めつけられた。
彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれていく羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、
生ける者の地から絶たれたことを。」(イザヤ53:3~8新改訳)と。

 そして、その700年ほど後のこと、
イエスは、ローマからユダヤに派遣されていた総督ピラトの裁判においても、
自分の弁護のために口を開くことなく、黙って祭司長たちの訴えを受けられ、
逆らうことなく、黙って、強盗と殺人の罪で処刑されるバラバが付けられるはずだった十字架に架かってくださったのだそうです。
バラバだけではなく、私たち全部の人間の身代わりとして。

 〔父である神〕は、受け入れる者の、神にそむき、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれた時からの私〕という霊を、このイエスの十字架刑での処刑に合わせられたものとして、十字架刑で処刑されたもの、死んだものと手続してくださるのだそうです。

 もう処罰するべき罪の残っていない者としてくださったうえで、
もう一人の救い主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を、私たちの新しい霊として、受け入れる者に派遣してくださり、
この方によって、ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを、受け入れる者の心に置いてくださって、受け入れる者がご自身と思いを同じくし、心を一つにする者にしてくださるのだそうです。
私たちと一つになりたいと願ってくださっているのだそうですから。

 ヨブは言います。
「人とは何者なのでしょう。
あなたがこれを尊び、これを御心に留められるとは」(ヨブ7:17)と。

 イエスは、神からの救いを受けようとせず、自分の思いのままに歩み、ついに滅びることになるエルサレムを思って、人々の前であるにもかかわらず、号泣されたのだそうです。

 そのように、天の神、主は、私たち一人一人を心に留め、
一人一人と親しく語り合い、交わることを願っていてくださるのだそうです(ルカ19:。41~48)。今日も。
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あらゆる恵みを満ち溢れさせて

2017-03-20 13:45:13 | 聖書から
測り縄は麗しい地を示し、
私は輝かしい嗣業を受けました。詩編16:6

 神は、
あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、
あらゆる善い業に満ち溢れるように、
あらゆる恵みを
あなたがたに満ち溢れさせることがおできになります。Ⅱコリント9:8

 ルカ14:(25~26)27~33(34~35)
 ルカ19:28~40(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/20;月・祝)

 測り縄とは、土地を測量するために用いた縄だそうですが、相続財産として受けた土地は良い所だったというような意味になるでしょうか。

 この詩の作者は、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方を自分の相続財産としていて、自分はすばらしい良い相続財産を得た幸いな者だとうたっているようです。

「私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。
私の身もまた安らかに住まおう」(詩篇16:8~9新改訳)と。

 また、この方、天の神は、恵みのプレゼントを満ち溢れさせ、私たちに、善い業ができるようにしていてくださる方なのだそうですね。

 イエスは、「自分の財産全部を捨てないでは、私の弟子となることはできません」(ルカ14:33)と言われました。

 ロシアの文豪、トルストイは、裕福な地主でしたが、自分の力でこのイエスの言葉のような生き方をしようと真面目に取り組み、畑を小作人に分け与え、なお、平安がなく、苦しんだ人だそうです。

イエスは、搭を築こうとするとき、
まずすわって、完成に十分な金があるか、よく計算したうえで取りかからないと、基礎を築いただけで完成できないようなことになり、
人々から『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言われることになる。

 また。王が、ほかの王と戦いを始めようとするとき、2万人を引き連れて向かって来る敵を、1万人で迎え撃つことができるかどうか、まずすわってよく考え、もし、見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求める。

 そのように、神のことば、律法を、自分の力でやりとおせるものか、まずすわってよく考え、もし、自分には手に余る、完成できないものであるなら、十字架に架かるために進んでいるイエスに、自分の十字架を負って処刑場に向かってついて行く者に、
そして、イエスの十字架刑での処刑が終わっている今は、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、自分を処刑された者、イエスの十字架で死んだ者としていただきなさい、と言っておられるようです(ルカ14:27~33)。

 〔父である神〕は、この、イエスの十字架刑での処刑に自分を合わせていただいて、〔生まれたときからの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものとしていただいた者に、新しい霊として、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、受け入れる者が、この方から来る、〔父である神〕の御思いによって生きるようにしてくださるのだそうです。

 私たちにも、善い業ができるよう、あらゆる恵みを用意してくださって。
今日も。
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始められた善い業を完成してくださるのですね。必ず。

2017-03-19 07:38:21 | 聖書から
鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、

神の国にふさわしくない。ルカ9:62(3/19の週の聖句)




あなたの神、主は憐れみ深い神であり、

あなたを見捨てることも

滅ぼすこともない。申命記4:31




 パウロの手紙:

あなたがたの中で善い業を始められた方が、

キリスト・イエスの日までに、

その業を成し遂げてくださると、

私は確信しています。フィリピ書1:6




 ルカ9:57~62

 詩篇10(通読箇所)

(ローズンゲン日々の聖句3/19:Ⅲ日)




 私たちは、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26新改訳)と望まれて創造されたものなのだそうです。




 そして、その出来ばえは「非常に良かった」のだそうです(創世記1:31)。

最初の人、アダムとエバは、エデンの園に置かれ、何不自由のない、豊かな生活をしていたようですが、サタンの、「あなたがたは、神のようになれますよ。善悪を知る者、善悪を自分一人で決定できる者になれますよ」との誘いにのって、

神の「われわれのかたち」、〔父である神〕と〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、自由意思で、愛し合うゆえに、心を一つにし、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる、その一つの中にいるよりも、

自分一人で善悪を決定する、そして、他を、神さえも、自分の善悪の判断の決定に従わせようとする者になったのだそうです(創世記3:5、21)。

神をさえも、その善し悪しを判断し、取捨選択し、自分で作り出す者に。

そして、この性質は、ずっと、すべての人間に、現在の私たちにまで遺伝し続けているのだそうです。




 陶器師は、出来ばえの気に入らない作品は、遠慮なく、石にたたきつけて砕いてしまいます。

けれども、天の神、主は、あわれみ深い方。

そのような、創造の目的からずれ、「的はずれ」に、出来そこないになった私たち人間を、なおも愛し、惜しんで、御自身と一つになる者へと回復する計画を立てておられたのだそうです。




 その計画に従って、〔御子である神〕が、天の栄光の座を後にして、人間イエスとして人の世に降り、

私たち、すべての人間の身代わりになり、

すべてのそむきの責任を取って、反逆罪で、十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。




 それで、このイエスの身代わりを受け取り、

イエスの死を自分の死としていただく者は、

私たち自身である〔生まれたときからの私〕という霊を、処刑されたもの、死んだものとしていただけるのだそうです。

すべての〔的はずれ〕の処罰が終わった者と。




 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、

受け入れる者の心に、〔父である神〕が一人一人に思っていてくださる御思いを置き、書きしるしてくださるので、

受け入れる者は、この部分において、〔父である神〕と同じ思いを思う、心を一つにする者としていただけ、

この思いによって行動するとき、私たちは神がしようと思われることをしていく者となり(ヨハネ14:12)、

神と行動を一つにする者としていただけるのだそうです(ヨハネ17:21~23)。

イエスが、「わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」(ヨハネ8:28、49~50)と仰っておられるように。そのイエスと〔父である神〕との関係に似せられていくのですね。

イエスと同じ身丈にまでも(エペソ4:13)。




 天の神、主は、その、始められた善い業を成し遂げ、完成してくださるのですね。

キリスト・イエスの日、

イエスが受け入れる者を迎えに来てくださる(ヨハネ14:3、Ⅰテサロニケ4:16)その日までに。必ず。

この新しい週も。











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〔これで商売をしなさい」と言い残して、王位を受けに旅立った主人を待つ僕のように

2017-03-18 08:01:10 | 聖書から
私はこの地では
宿り人にすぎない。詩編119:19

 私たちの本国は天にあります。
そこから主イエス・キリストが
救い主として来られるのを、
私たちは待っています。フィリピ書3:20

 ガラテヤ書2:16~21
 ルカ19:11~27(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/18;土) 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方によって、
「われわれのかたちとして、われわれに似せた者を」と望まれて創造された私たち人間(創世記1:26新改訳)。

 しかし、自分が神に取って代わろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって(創世記3:5、22)、
神に背き、創造の目的からずれてしまい、的外れになっている私たちの〔生まれたときからの私〕という霊。
その、出来そこないになって、滅びに向かっている私たちを、
天の神、主は、なお、愛し、惜しんで、回復の道を用意してくださっているのだそうです。

 〔御子である神〕が、天の栄光の座を後にして、人として人の世に来てくださり、私たちの身代わりになり、私たちの〔的外れ〕の責任をご自身に負ってくださって、神に反逆した者、神に呪われた者となって十字架刑での処刑を受けてくださって、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです(ガラテヤ2:19~20)。

 そのうえで、新しい霊として、受け入れる者に、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、
受け入れる者の心に、〔父である神〕が一人一人に思っていてくださる御思いを置き、書きしるしてくださるのだそうです(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)。

 それで、受け入れる者は〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにする者としていただけて、
神に生きる者、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」いただいた者として、
イエスが言われる、
「それは、父よ。あなたがわたしにおられ、私があなたにいるように、彼らもわたしたちにおるようになり、彼らが(わたしたちと)一つになる」(ヨハネ17:21~23)者としていただけるようです。

 イエスは言われました。
「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。
わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです」(ヨハネ12:26)と。

〔聖である霊〕と呼ばれる方は、私たちを「子としてくださる御霊」、神の子の身分を与えてくださる方。
それで、私たちもこの方によって〔父である神〕を「お父さん」と呼べる身分を与えていただけて、
イエス様と共にいて、
天の御国を相続する者(ロマ8:14~17)、天の御国の国籍を持つ者ともしていただけるのだそうです。

 十字架に架かられ、死んで墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、墓から、新しい霊のからだに復活され、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、弟子たちと過ごされた後、
オリーブ山から、弟子たちの見ている前で、天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスは、
〔父である神〕が定められた時に、
受け入れている者たちを迎えに、再び、来られるのだそうです。

 その時まで、
「これで商売をしなさい」と1ミナ(給料100日分)を預けられ、王位を受けて帰る主人を待つしもべのように(ルカ19:11~27)、
イエスが王として来られるのを待つのですね。
託されているものを活用しながら。
今日も。
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天の神、主のまことの中を

2017-03-17 09:00:51 | 聖書から
主よ、あなたの道をお教えください。

わたしはあなたのまことの中を歩みます。詩編86:11




 イエスは、ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のセべダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。

この二人もすぐに、

舟と父親とを残してイエスに従った。マタイ4:21~22




 Ⅱコリント13:3~9

 ルカ19:1~10(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/17:金)




 イエスが宣教を開始された、まだ、無名であったとき、

ヤコブとヨハネ兄弟も、ペテロやアンデレと同じように、

バブテスマのヨハネのイエスに対する証言、

「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」、

また、「この方こそ、私よりも先におられ、聖霊によってバブテスマを授ける方」との証言を聞いてはいたのでしょうが(ヨハネ1:29~37)、

イエスから呼ばれると、全部を残したまま、後ろを振り返ることなく(ルカ9:62)、イエスに従ったのだそうです。




 エリコの町の取税人のかしらザアカイ。

お金がすべて、お金こそわが神として、人々から嫌われる取税人になり、

税を決まったもの以上に取り立てて金持ちになっていたのだそうですが、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」とのイエスの愛にふれ、財産の半分を貧しい人たちに施し、だまし取った物は、4倍にして返します」と自分から申し出る者になったのだそうです。




 私たちも、「われわれのかたちとして、われわれに似せた」者を(創世記1:26)、と望まれる、天の神、主、「わたしあるという者」と名乗られる方のまこと、において、天の神、主と心を一つにして、同じ思いを思う者に、御思いについていく者にしていただけるようです。




 〔神のひとりのようになり、善悪を知る者〕になっている(創世記3:5、22)、私自身である〔生まれたときからの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだものと手続きしていただき、

三日目に墓より、新しい霊のからだに復活し、天の〔父である神〕の右の座、〔御子である神〕の位に帰られたイエスが派遣してくださる、

〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、

この方によって、心に、〔父である神〕が、私たち一人一人に思っておられる御思いを置いていただけるのだそうですから(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~31)。




 天の神、主が、喜ぶことを喜び、この方が忌み嫌うことをいとうようになり、この方がしようと思われることをしたいと願い(ピリピ2:13)、この方が語ろうとされることを語るようになり、悪い行いを悲しみ、正しい行いを喜ぶ心にしていただけるのだそうです(Ⅱコリント13:3~9)。

今日も。











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