今、私たちはエルサレムへ上って行く。
人の子について預言者が書いたことは
みな実現する。ルカ18:31(2/26の週の聖句)
主よ、あなたは万物に命をお与えになる方。
天の軍勢はあなたを伏し拝む。ネヘミヤ記9:6
言(ことば)の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。ヨハネ1:4
マルコ8:31~38
詩編15
(ローズンゲン日々の聖句2/26:Ⅳ日)
聖書には、天使のことはあまり詳しくは述べていないようです。
しかし、天(霊の世界)には、私たちが、「天の神、主」とお呼びし、ご自分では、「わたしはあるという者」と名乗られる方がおられ、また、多くの天使の軍勢がいて、天の神、主に仕えているようです。
それで、天の神、主を「万軍の主」ともお呼びしているわけです。
〔父である神〕は、人間を、そして、人間の住まいとしてのこの天地、宇宙、この自然界のすべてを設計、計画なされ、〔御子である神〕は、〔神の言(ことば)〕、〔言(ことば)である神〕の立場にあって、〔父である神〕の御思いを表現、宣言なさり、創世記1:2によると、その、〔言(ことば)〕のとおりを〔聖である霊〕と呼ばれる方が実現されたようです。
この〔御子である神〕、〔言である神〕は命であり、人を照らす光でなのだそうですね。
私たち人間も、この自然界のすべてのもの、天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものは(ネヘミヤ9:6)、〔父である神〕の御思いのとおりに、〔御子〕、〔言である神〕を通し、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって造られ、命を与えられた、ということでしょうか。
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たち人間を、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」造られたのだそうです(創世記1:26新改訳)。
しかし、人間の始祖、アダムは、その、神が造られた場に留まることをしないで、「神のひとりのようになろう。善悪を知る者になろう」として、天の神、主に対抗、対立する者になり、〔的はずれ〕なものになったのだそうです(創世記3:5、22)。
それで、アダムの子孫である私たち人間は、その性質を受け継いで生まれて来ており、自分が一番になろうとして、互いに対抗、対立しあい、良い物の全部を独り占めしようとし、他を自分の思いのとおりに支配しようとし、その心に計ることがみな、いつも悪いことに傾き、人の世界は暴虐で満ちることになったのだそうです(創世記6:5、11)。
天の神、主は、そのように、創造の目的から的はずれになってしまった人間を、廃棄処分にはしないで、なお、最初の目的のとおりに、「われわれのかたちとして、われわれに似た」ものに回復しようと計画してくださっているのだそうです。
そのご計画は、〔御子である神〕が、人となって人の世に下り、すべての人間の、すべての〔的はずれ〕の責任を負って、神に反逆する者として木に掛けられ、処刑されることで、すべての人間の、すべての〔的はずれ〕の処罰が終わったこととしてくださるというもののようです。
その上で、受け入れる者に、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、この方によって受け入れる者の心に、ご自身の、一人一人に思っておられる御思いを置き、受け入れる者と一つ思いとなり、一つ心となろうと願っておられるのだそうです(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)。
ご自分たちが一つ思いになり、一つ心になっておられるように(ヨハネ17:21~22)。
冒頭の言葉は、その〔父である神〕の御計画のときが満ちて、旧約聖書で預言されていたとおりに、十字架刑で処刑されるために、イエスは、いよいよこれから、エルサレムに向かおうとしておられるときのものなのだそうです。
およそ2000年ほど前に、イエスによる処刑が完了している今は、それを受け入れるなら、私たちも、「神の一人のようになり、善悪を知る」ものになっている、私たち自身である〔生まれたときのままの霊〕を処刑されたもの、死んだものとしていただけるのだそうです。
そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださり、心に、〔父である神〕の私に対して思っておられる御思いを置いてくださるので、私たちも〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になるようにしていただけるのだそうです。
命と光である御思いの中に。
この新しい週も。
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人の子について預言者が書いたことは
みな実現する。ルカ18:31(2/26の週の聖句)
主よ、あなたは万物に命をお与えになる方。
天の軍勢はあなたを伏し拝む。ネヘミヤ記9:6
言(ことば)の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。ヨハネ1:4
マルコ8:31~38
詩編15
(ローズンゲン日々の聖句2/26:Ⅳ日)
聖書には、天使のことはあまり詳しくは述べていないようです。
しかし、天(霊の世界)には、私たちが、「天の神、主」とお呼びし、ご自分では、「わたしはあるという者」と名乗られる方がおられ、また、多くの天使の軍勢がいて、天の神、主に仕えているようです。
それで、天の神、主を「万軍の主」ともお呼びしているわけです。
〔父である神〕は、人間を、そして、人間の住まいとしてのこの天地、宇宙、この自然界のすべてを設計、計画なされ、〔御子である神〕は、〔神の言(ことば)〕、〔言(ことば)である神〕の立場にあって、〔父である神〕の御思いを表現、宣言なさり、創世記1:2によると、その、〔言(ことば)〕のとおりを〔聖である霊〕と呼ばれる方が実現されたようです。
この〔御子である神〕、〔言である神〕は命であり、人を照らす光でなのだそうですね。
私たち人間も、この自然界のすべてのもの、天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものは(ネヘミヤ9:6)、〔父である神〕の御思いのとおりに、〔御子〕、〔言である神〕を通し、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって造られ、命を与えられた、ということでしょうか。
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たち人間を、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」造られたのだそうです(創世記1:26新改訳)。
しかし、人間の始祖、アダムは、その、神が造られた場に留まることをしないで、「神のひとりのようになろう。善悪を知る者になろう」として、天の神、主に対抗、対立する者になり、〔的はずれ〕なものになったのだそうです(創世記3:5、22)。
それで、アダムの子孫である私たち人間は、その性質を受け継いで生まれて来ており、自分が一番になろうとして、互いに対抗、対立しあい、良い物の全部を独り占めしようとし、他を自分の思いのとおりに支配しようとし、その心に計ることがみな、いつも悪いことに傾き、人の世界は暴虐で満ちることになったのだそうです(創世記6:5、11)。
天の神、主は、そのように、創造の目的から的はずれになってしまった人間を、廃棄処分にはしないで、なお、最初の目的のとおりに、「われわれのかたちとして、われわれに似た」ものに回復しようと計画してくださっているのだそうです。
そのご計画は、〔御子である神〕が、人となって人の世に下り、すべての人間の、すべての〔的はずれ〕の責任を負って、神に反逆する者として木に掛けられ、処刑されることで、すべての人間の、すべての〔的はずれ〕の処罰が終わったこととしてくださるというもののようです。
その上で、受け入れる者に、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、この方によって受け入れる者の心に、ご自身の、一人一人に思っておられる御思いを置き、受け入れる者と一つ思いとなり、一つ心となろうと願っておられるのだそうです(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)。
ご自分たちが一つ思いになり、一つ心になっておられるように(ヨハネ17:21~22)。
冒頭の言葉は、その〔父である神〕の御計画のときが満ちて、旧約聖書で預言されていたとおりに、十字架刑で処刑されるために、イエスは、いよいよこれから、エルサレムに向かおうとしておられるときのものなのだそうです。
およそ2000年ほど前に、イエスによる処刑が完了している今は、それを受け入れるなら、私たちも、「神の一人のようになり、善悪を知る」ものになっている、私たち自身である〔生まれたときのままの霊〕を処刑されたもの、死んだものとしていただけるのだそうです。
そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださり、心に、〔父である神〕の私に対して思っておられる御思いを置いてくださるので、私たちも〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になるようにしていただけるのだそうです。
命と光である御思いの中に。
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