その世代が皆途絶えて先祖のもとに集められると、その後に、
主を知らず、
主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。士師記2:10
シメオンの祈り:
これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。ルカ2:31~32
エレミヤ書17:13~17
エレミヤ書43:1~13
(ローズンゲン日々の聖句10/7;金)
出エジプトをしたイスラエルの民、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に、「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と応え、神の民となる契約を結んだのだそうです(出エジプト24:7)。
けれども、やはり「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」(創世記3:5、22)とする者であって、
約束の地を目の前にして、「あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ」との言葉に従わず、
「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる」とつぶやき、上ろうとしなかったのだそうです(申命記1:20~40)。
それで、そのとき成人になっていた者が死に絶えるまで、荒野で40年を過ごすことになり、新しい世代になって、モーセに代わったヨシュアの指導の下に約束の地に入ったのだそうです。
そして、ヨシュアもその世代の人も死に、新しい世代になったときも、
彼らは、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に聞き従おうとはせず、
自分の善悪の判断のままを行い、
エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、
ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝む者になっていったのだそうです。
天の神、主の啓示を受け、律法を与えられた神の民にあってこのようですから、律法を持たず、天の神、主を知らない異邦人にあっては、なおさらのこと、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」として、天の神、主に聞こうとせず、自分の理性による善悪の判断のままに行動し、圧政と暴虐が満ちる世界となっていったようです。
生後40日ほどのイエスを、両親は、律法の定めるところにより、エルサレム神殿に連れて行ったのだそうです。
そのとき、シメオンという人が近づいて来て、イエスを腕に抱き、神をほめたたえて言ったのだそうです。
「私の目があなたの御救いを見たからです。
御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」(ルカ2:22~32新改訳)と。
このイエスが、およそ、33歳の頃、十字架刑での処刑を受けてくださり、
私たち、天の神、主、「わたしはあるという者」と言われる方から、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と願われて造られていながら、もっと上の者になろうとし、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、自分の理性による善悪の判断のとおりに生き、
造り主である天の神、主にそむくものになっている「生まれたときからの私」という霊を処刑済み、死んだものとする道を開いてくださったのだそうです。
そして、受け入れる者に、新しく、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方によって、「父である神」と呼ばれる方が私たちひとり一人に思っていてくださる御思いを、受け入れる者の心に置いてくださり、「父である神」と同じ思い、一つ思いになって生きるようにしてくださるのだそうです。
受け入れる者は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、「生まれたときからの私」という霊から心に来る思いを、「死んだもの」から来る思いと認めて(ロマ6:11)、「聖である霊」から来る思いを自分の思いとして、御思いのままに生きるのだそうです。
今日も。
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主を知らず、
主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。士師記2:10
シメオンの祈り:
これは万民のために整えてくださった救いで、
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あなたの民イスラエルの誉れです。ルカ2:31~32
エレミヤ書17:13~17
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(ローズンゲン日々の聖句10/7;金)
出エジプトをしたイスラエルの民、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に、「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と応え、神の民となる契約を結んだのだそうです(出エジプト24:7)。
けれども、やはり「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」(創世記3:5、22)とする者であって、
約束の地を目の前にして、「あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ」との言葉に従わず、
「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる」とつぶやき、上ろうとしなかったのだそうです(申命記1:20~40)。
それで、そのとき成人になっていた者が死に絶えるまで、荒野で40年を過ごすことになり、新しい世代になって、モーセに代わったヨシュアの指導の下に約束の地に入ったのだそうです。
そして、ヨシュアもその世代の人も死に、新しい世代になったときも、
彼らは、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に聞き従おうとはせず、
自分の善悪の判断のままを行い、
エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、
ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝む者になっていったのだそうです。
天の神、主の啓示を受け、律法を与えられた神の民にあってこのようですから、律法を持たず、天の神、主を知らない異邦人にあっては、なおさらのこと、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」として、天の神、主に聞こうとせず、自分の理性による善悪の判断のままに行動し、圧政と暴虐が満ちる世界となっていったようです。
生後40日ほどのイエスを、両親は、律法の定めるところにより、エルサレム神殿に連れて行ったのだそうです。
そのとき、シメオンという人が近づいて来て、イエスを腕に抱き、神をほめたたえて言ったのだそうです。
「私の目があなたの御救いを見たからです。
御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」(ルカ2:22~32新改訳)と。
このイエスが、およそ、33歳の頃、十字架刑での処刑を受けてくださり、
私たち、天の神、主、「わたしはあるという者」と言われる方から、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と願われて造られていながら、もっと上の者になろうとし、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、自分の理性による善悪の判断のとおりに生き、
造り主である天の神、主にそむくものになっている「生まれたときからの私」という霊を処刑済み、死んだものとする道を開いてくださったのだそうです。
そして、受け入れる者に、新しく、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方によって、「父である神」と呼ばれる方が私たちひとり一人に思っていてくださる御思いを、受け入れる者の心に置いてくださり、「父である神」と同じ思い、一つ思いになって生きるようにしてくださるのだそうです。
受け入れる者は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、「生まれたときからの私」という霊から心に来る思いを、「死んだもの」から来る思いと認めて(ロマ6:11)、「聖である霊」から来る思いを自分の思いとして、御思いのままに生きるのだそうです。
今日も。
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