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朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

私の闇を照らしていただきながら

2016-08-22 06:43:35 | 聖書から
主よ。

 あなたは私のともし火、

   主は私の闇を照らしてくださる。サムエル記下22:29




 キリストの言葉:

わたしを信じる者が、

だれも暗闇の中にとどまることのないように、

わたしは光として世に来た。ヨハネ12:46




 マタイ12:1~8

 マルコ10:1~12

      (ローズンゲン日々の聖句8/22;月)




 ダビデ王は言いました。

「主、「わたしはある」と名乗られる方はわが巌、わが砦、わが救い主、

わが身を避けるわが岩なる神。

わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。

ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。




 あなたは、恵み深い者には、恵み深く、

全き者には、全くあられ、

きよい者には、きよく、

曲がった者には、ねじ曲げる方。

あなたは、悩む民を救われますが、

高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。

主よ。あなたは私のともしび。

主は、私のやみを照らされます。(Ⅱサムエル22:1~4、26~29新改訳)と。







 私の回りにある闇、私のうちにある闇、

光として来られたイエスがいてくださると、闇は消え去るのだそうです。




 私の心にある罪の暗闇を、思い煩いの暗闇を、そっくり、そのまま、イエスととおして、父である神の御前に差し出し、、見ていただき、知っていただくと、それは光りの中の出来事、明るい出来事にしていただけるのだそうです(エペソ5:11~14、ピリピ4:6)。




 そして、イエスを通して現される父である神の御思い、

聖である霊と呼ばれる方が、私たちの心に置いてくださる、父である神の御思い、

その思いについて行くとき、私たちは光の中を歩むことになるようですね。




 文章で神の御思いが示され、その書かれてあるとおりに生きようとしながら、

判断を間違えて、神の御思いとは違うことをしながら、それで自分は御思いのようにやっていると思い違いをしてしまう闇があります。




 イエスは、父である神のほんとうの御思いを人々に示して、本来の、正しい、父の御思いに導かれようとしてくださっていたようです。




 安息日を守ろうと、細かい、してはいけない基準を作って、人々を縛り付けていた律法解釈を正し、(マタイ12:1~8)、

また、律法を自分に都合の良いように解釈して、「離婚状さえ渡せば自由に離婚していい」とする男の身勝手な解釈を正して、

結婚を定められた父である神の本来の御思い、「それゆえ、人はその父と母を離れ、ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはいけません」(マルコ10:1~12)と。




 イエスによって、また、イエスが遣わしてくださる「聖である霊」と呼ばれる方によって、父である神の御思いを心に置いていただき(エゼキエル36:26~27)、その御思いについて行くなら(ヨハネ10:3~5、ガラテヤ5:25)、私たちは、自分の理性の暗闇に閉じ込められることはなく、しっかりと父である神に向かえるのだそうです。

今日も。


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驚くべき御業と奇跡を心に留めながら

2016-08-20 00:37:12 | 聖書から
主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を、

  主の口から出る裁きを心に留めよ。詩編105:5




 御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい。

それは、私たちが神の子と呼ばれるほどなのです。Ⅰヨハネ3:1




 イザヤ書57:15~19

 マルコ9:42~50

      (ローズンゲン日々の聖句8/20;土)




 主に感謝して、御名を呼び求めよ。

そのみわざを国々の民の中に知らせよ。

主に歌え。主にほめ歌を歌え。

そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。

主の聖なる名を誇りとせよ。

主を慕い求める者の心を喜ばせよ。

主とその御力を尋ね求めよ。

絶えず御顔を慕い求めよ。

主が行われた奇しいみわざを思い起こせ。

その奇蹟と御口のさばきとを。

この方こそ、われらの神、主。

そのさばきは全地にわたる。(詩篇105:1~7新改訳)







 父である神と呼ばれる方が、どれほど、私たちを愛してくださっているか。

私たちを、ご自身の子としてくださるほどに、なのだそうです。




 父である神の、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)との願いによって、

「父」である神、「御子」である神、「聖である霊」と呼ばれる神が、愛と尊敬によって、自由意思で、自発的に、心を一つにし、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる、その一つを現すひな型、モデルとなるような、その一つに加わるものをとの願いによって造られた私たち人間。




 けれども、最初の人アダムとエバは、その、神と一つになっているよりも、神のひとりのようになろう、自分一人の理性の判断で善悪を決定する者になろうとして、神にそむき、神に対抗する者になったのだそうです(創世記3:5、22)。







 天の神、主は、全知、全能の方。

自由意思を持つ者として人間を創造した場合、人間が、その与えていただいた自由意思をもってご自分にそむく者になることは予測されていたのでしょうね。




 けれども、御子である神が、「そのときには、わたしが人となって人の世に行き、そのそむきの罪を負いましょう」と提案され、

聖である霊と呼ばれる神が、「御子である神によって、そむきの罪の処罰が終わったなら、わたしが行って、人の心に、父である神が人間ひとりひとりに持っておられる御思いを書き付け、受け入れる人間が同じ思いを心に持つ者にしましょう」と提案され、そして、「さあ、人を造ろう」(創世記1:26)ということになったようです。




 そして、アブラハム以降だけでも2000年の人間の歴史の流れの中で、御子である神が、「女の子孫」(創世記3:15)、人間イエスとして人の世に来られ、およそ33歳の頃、すべての人間のすべての罪を負って、ローマ兵の手によって十字架刑で処刑され、受け入れる者の罪を処刑済みとしてくださる道を開いてくださったのだそうです。




 イエスが処刑された過ぎ越しの祭りから、ちょうど50日目、ペンテコステ(五旬節)の祭りの日、待ち望んでいたイエスの弟子たち、120人ほどに、突然、約束の「聖である霊」と呼ばれる神が来られて、この方をお迎えした弟子たちは、この方が心に置かれた「父である神」の御思いのままに話し出し、行動するようになったのだそうです(使徒2:1~4)。







 造り主である天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方を無視し、自分の理性を神とし、自分一人の善悪の判断のとおりを実現しようとする私たち。

その私たちを、なお、愛し続け、求め続け、呼びかけ続けて下さって、帰って来る者を、イエスの十字架刑に合わせて処刑された者と手続きしてくださり、ご自身の「子」の身分を与えてくださり、聖である霊と呼ばれる方によってご自分と思いを一つにし、心を一つにする者にしてくださるのだそうです。




 御子が命を捨てて完成してくださったこの救いのみわざを、この私たちが「神の子」とされる奇跡を心に留めるのですね。







 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、

その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。

「わたしは、高く聖なる所に住み、

心砕かれて、へりくだった人とともに住む。

へりくだった人の霊を生かし、

砕かれた人の心を生かすためである。

わたしはいつまでも争わず、

いつまでも怒ってはいない。

わたしから出る霊と、

わたしが造ったたましいが衰え果てるから。

彼のむさぼりの罪のために、

わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。

しかし、彼はなおそむいて、

自分の思う道を行った。

わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。

わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、

慰めを報いよう。

わたしはくちびるの実を創造した者。

平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。

わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる(イザヤ57:15~19)のだそうです。

今日も。











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恵みと希望、慰めを与えて下さる方と

2016-08-19 07:31:14 | 聖書から
主のことば:

かつてこの民に大きな災いを下したが、

  今や、彼らに約束した通り、あらゆる恵みを与える。エレミヤ32:42




 パウロの手紙:

あなたがたについて私たちが抱いている希望は揺るぎません。

あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、

慰めをも共にしていると、

私たちは知っているからです。Ⅱコリント1:7




 マタイ12:15~21

 マルコ9:38~41

      (ローズンゲン日々の聖句8/19;金)




 天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と名乗られる方は、

「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と答えて、

この方をわたしの神とし、心を一つにして歩みますとの契約を結びながら(出エジプト24:7)、

心は遠く離れ、

「彼らはわたしに、顔ではなく背を向け、わたしがしきりに彼らに教えるが、聞いて懲らしめを受ける者もなく、たしの名がつけられている宮に忌むべき物を置いて、これを汚し、わたしが命じもせず、心に思い浮かべもしなかったことだが、彼らはモレクのために自分の息子、娘をささげて、この忌み嫌うべきことを行うために、ベン・ヒノムの谷にバアルの高き所を築き、ユダを迷わせた」ご自分の民を、

剣と飢饉と疫病により、バビロン王の手に渡そうとしておられるのですが(エレミヤ32:33~36)、

それなのに、なお、言われるのですね。




 「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。

彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

わたしは、いつもわたし恐れさせるために、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、

彼らに一つの心と一つの道を与え、

わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。

わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。

わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし、思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。

わたしがこの大きなわざわいをみな、この民にもたらしたように、

わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす」(エレミヤ32:37~42新改訳)と。




 天の神、主、「わたしはあるという者だ」と名乗られる方は、ご自分の民が間違った方向にどんどん進んで行って、最終的には滅びてしまうことにならないようにと、

方向転換をしてご自分に帰って来るようにと、民を打たれるようです。




 けれども、その打っておられるときにも、神は、その、そむく民と一緒にいて、ご自身も苦しみを味わい、苦しみを共にしておられ、慰めと希望を与えようとしていてくださる方のようです(Ⅱコリント1:3~10)。







 御子である神と呼ばれる方は、私たち、すべての人間のそむきの責任をご自身に負って、私たちすべての人間に代わって、病を負い、十字架刑で処刑され、神に呪われた者として天と地との間に高く掲げられ、さらしものになってくださるために、人間イエスとして人の世に来てくださったのだそうです。




 神は、この方について、イエスが生まれる700年ほど前に、預言者イザヤを通して言っておられます。、

「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、

わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。

わたしは彼と上にわたしの霊を置き、

彼は異邦人に公義を宣べる。

争うこともなく、叫ぶこともせず、

大路でその声を聞く者もいない。

彼はいたんだ葦を折ることもなく、

くすぶる燈心を消すこともない。

公義を勝利に導くまでは。

異邦人は彼の名に望みをかける」と(マタイ12:15~21)と。







 そのイエスは、12弟子のひとり、ヨハネが、

「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間でないのでやめさせました」と、まるで、良いことをしたかのように報告してきたとき、答えられたのだそうです。

「やめさせることはありません。

わたしの名を唱えて、力ある業を行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。

わたしに反対しない者は、わたしの味方です。

あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。

これは確かなことです」(マルコ9:38~41)と。




 このイエスは、そして「私の霊を置く」と言われている方は、受け入れる者とともにいて働いてくださり、父である神の御思いのように、受け入れる者を導いてくださるのだそうです。

今日も。


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国々の中で、あなたに感謝をささげ、御名をほめ歌います

2016-08-17 22:39:44 | 聖書から
国々の中で、

  私はあなたに感謝をささげ、

     御名をほめ歌う。詩編18:50




 パウロは、

全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、

主イエス・キリストについて教え続けた。使徒28:31




 ヤコブ書5:13~16

 マルコ9:30~37

      (ローズンゲン日々の聖句8/18;木)




 天の神、主は、敵から助け出し、

立ち向かう者から引き上げ、

暴虐の者から救い出される方。

「それゆえ、主よ。

私は、国々の中であなたをほめたたえ、あなたの御名を、ほめ歌います」と、ダビデ王はうたうのですね。




 パウロも、エルサレムで、同じ国の者から命を狙われ、殺されるところを治安維持にあたっていたローマ兵によって保護されたのだそうです。




 それで、同国人から、死刑にするよう訴えられたのですが、パウロは、ローマ市民権をもっていたので、皇帝に上訴することで難を逃れ、ローマに護送され、ローマ皇帝の裁判を受けることになったのだそうです。

 この時は、満2年の間、捕らわれの身で、足には鎖がつけられ、ローマ皇帝の親衛隊が見張っている中ではありましたが、

自分の借りた家で、自由に、今までのように同国人からの迫害で妨げられることもなく、訪ねて来る人々に神の国を宣べ伝え、イエスについて教えることができたのだそうです。




 そればかりか、パウロが捕えられているのは、イエス・キリストのゆえであることが、およそ9000人ほどいる親衛隊の全員と、そのほかの人々にも明らかになったのだそうです(ピリピ1:13)。







 イエスは、だれが一番偉いかと論じあっている12弟子に、言われたのだそうです。

「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、

みなのしんがりとなり、みなに仕える者になりなさい」と。




 そして、ひとりの子どもを連れて来て、

「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。

また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」(マルコ9:33~37)と。







 イエスの弟で、おそらくは、イエスの十字架刑での処刑以後にイエスをキリストと信じるようになったヤコブは言います。

「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。

その人は祈りなさい。

喜んでいる人がいますか。

その人は賛美しなさい。

病気の人がいますか。

その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。

主はその人を立たせてくださいます。

また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。

いやされるためです。

義人の祈りは働くと、大きな力があります」(ヤコブ5:13~16)と。




それで、感謝をささげ、御名をほめ歌うのですね

今日も。


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命の水の欲しい者は、それをただで受けなさい

2016-08-16 20:52:32 | 聖書から
苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず、
  渇きによって舌は干上がる。
 主である私が彼らに答えよう。イザヤ書41:17

 渇いている者は来るがよい。
命の水がほしい者は、値なしに飲むがよい。黙示録22:17

 使徒9:31~35
 マルコ9:14~29
      (ローズンゲン日々の聖句8/17;水)

 苦しんでいる人、貧しい人、渇きによって舌が干上がっている人に、わたしが答えると、天の神、主、「わたしはある。わたしはあるというものだ」と名乗られる方は言われるのですね。

 イエスは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、
その人の心の奥底(はらわた)から、
生ける水の川が流れ出るようになる」と。

 そして、使徒ヨハネは、
「これは、イエスを信じる者が後になってから(イエスの十字架刑での処刑が完了し、新しい霊のからだに復活され、天の父である神の右の座に帰られたとき)受ける御霊のことを言われたのである。
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである」と解説しています(ヨハネ7:37~39)。

 十字架上で、「完了した」とおっしゃられ、霊を父である神にお渡しになったイエス。
ローマ兵がイエスのわき腹を槍で突き刺し、イエスの死亡が確認され、
すでに夕方になっており、日没とともに安息日が始まるので、急遽、近くにあった、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られ、
三日目の日曜日の早朝、女の弟子たちが墓に行った時には、すでに復活されており、
その後、40日に渡って、何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを弟子たちに示されたイエス(ヨハネ19:28~21:25、使徒1:3)。

 そして、イエスは、「エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマ(洗礼)を受けるからです」と言い置いて、弟子たちのみている前で、オリーブ山から、天の父である神の右の座に帰って行かれたのだそうです(使徒1:9)。

 それから10日後の、ペンテコステ(5旬節)の祭りの日、集まっていた120人ばかりの弟子たちに、約束の「御霊」、「聖である霊」と呼ばれる方が来られ、
弟子たちは、「聖である霊」と呼ばれる方が話させてくださる通りに、他の言葉で話しだしたのだそうです(使徒2:1~4)。

 ペンテコステ(五旬節)、
モーセを介して、律法(神の御思いを成文化したもの)が示され、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方と、エジプトを出て来たイスラエルの民との間に、契約が結ばれた、その記念日に、
新しい契約、受け入れる者に「聖である霊」と呼ばれる方が来られて、父である神の、私たちひとりひとりに思ってくださっている御思いを、受け入れる者の心に書き付けてくださり、受け入れる者が父である神と呼ばれる方と思いを一つにし、心を一つにして生きるようになる、との新しい契約(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~31)が発効したのだそうです。

 そして、弟子たちは、イエスがそうされていたように(マルコ9:14~29)、「聖である霊」が心に置いてくださる「父である神」の御思いのとおりに、病で苦しんでいる人を癒し、死人を生き返らせて人々に返し(使徒9:31~35)、イエスがしようと思われるわざをしていくようになったのだそうです(ヨハネ14:12)

 この「命の水」、「聖である霊」と呼ばれる方の御業は、2000年前の弟子たちだけに起こったことではなく、今、求める者に与えていただけるのだそうですね。
天の神、主は、「渇く者は来なさい。命の水がほしい者は、それをただで受けなさい」と呼び掛けておられるのだそうですから。
今日も。
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