主なる神が、助けてくださるから、
私は辱(はずかし)められることはない。イザヤ書50:7
神は、私たちを救ってくださったし、
また救ってくださることでしょう。
これからも救ってくださるにちがいないと、
私たちは神に希望をかけています。
あなたがたも祈りで応援してください。Ⅱコリント1:10~11
(ローズンゲン日々の聖句7/26;火)
預言者イザヤは言います。
「神である主は、私に弟子の舌を与え、
疲れた者をことばで励ますことを教え、
朝ごとに、私を呼びさまし、
私の耳と開かせて、
私が弟子のように聞くようにされる。
神である主は、私の耳を開かれた。
私は逆らわず、うしろに退きもせず、
打つ者に私の背中をまかせ、
ひげを抜く者に私の頬をまかせ、
侮辱されても、つばきをかけられても、
私の顔を隠さなかった。
しかし、神である主は、私を助ける。
それゆえ、私は、侮辱されなかった。
それゆえ、私は顔を火打石のようにし、
恥を見てはならないと知った。
私を義とする方が近くにおられる。
だれが私と争うのか。
さあ、さばきの座に共に立とう。
どんな者が、私を訴えるのか。
私のところに出て来い。
見よ。神である主が、私を助ける。
だれが私を罪に定めるのか。
見よ。彼らはみな、衣のように古び、
しみが彼らを食い尽くす(イザヤ50:4~9、新改訳)」、と。
使徒パウロは手紙に書いています。
「兄弟たちよ。
私たちがアジア(現在のトルコ地方)で会った、苦しみについて、ぜひ知っておいてください。
私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。
これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。
また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。
あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。
それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです(Ⅱコリント1:8~11)、と。
酒に酔うのではなく、詩と賛美と霊の歌によって互いに語り合いながら、
主に向かって、心から歌い、賛美しながら、御霊に満たされなさい。
この方によって、主のみこころはなんであるかを、よく悟り、機会を十分に生かして用いるように(エペソ5:15~20)、と。
その始まりは、からし種のように、地に蒔かれる種の中で、一番小さい、針の先でちょっと突いた程度の、見えない、気が付かない程度のことのようであっても、そうこうしているうちに、どんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどに、それほどに成長する(マルコ4:10~11)のだそうですから。
今日も。
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神は、私たちを救ってくださったし、
また救ってくださることでしょう。
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預言者イザヤは言います。
「神である主は、私に弟子の舌を与え、
疲れた者をことばで励ますことを教え、
朝ごとに、私を呼びさまし、
私の耳と開かせて、
私が弟子のように聞くようにされる。
神である主は、私の耳を開かれた。
私は逆らわず、うしろに退きもせず、
打つ者に私の背中をまかせ、
ひげを抜く者に私の頬をまかせ、
侮辱されても、つばきをかけられても、
私の顔を隠さなかった。
しかし、神である主は、私を助ける。
それゆえ、私は、侮辱されなかった。
それゆえ、私は顔を火打石のようにし、
恥を見てはならないと知った。
私を義とする方が近くにおられる。
だれが私と争うのか。
さあ、さばきの座に共に立とう。
どんな者が、私を訴えるのか。
私のところに出て来い。
見よ。神である主が、私を助ける。
だれが私を罪に定めるのか。
見よ。彼らはみな、衣のように古び、
しみが彼らを食い尽くす(イザヤ50:4~9、新改訳)」、と。
使徒パウロは手紙に書いています。
「兄弟たちよ。
私たちがアジア(現在のトルコ地方)で会った、苦しみについて、ぜひ知っておいてください。
私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。
これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。
また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。
あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。
それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです(Ⅱコリント1:8~11)、と。
酒に酔うのではなく、詩と賛美と霊の歌によって互いに語り合いながら、
主に向かって、心から歌い、賛美しながら、御霊に満たされなさい。
この方によって、主のみこころはなんであるかを、よく悟り、機会を十分に生かして用いるように(エペソ5:15~20)、と。
その始まりは、からし種のように、地に蒔かれる種の中で、一番小さい、針の先でちょっと突いた程度の、見えない、気が付かない程度のことのようであっても、そうこうしているうちに、どんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどに、それほどに成長する(マルコ4:10~11)のだそうですから。
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