夜も昼もこの神殿に、
この所に御目を注いでください。
ここはあなたが、「わたしの名をとどめる」と
仰せになった所です。列王記上8:29
キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。
もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、
私たちこそ神の家なのです。ヘブル書3:6
(ローズンゲン日々の聖句7/7;火)
神殿、それは天の神、主が住まわれるところ。
しかし、壮麗をきわめたソロモンの神殿においてさえ、
ソロモン王自身が言っているように、
「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。
実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。
まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです」、
なのですね。
それなのに、天の神、主は、
私たち人間の一人一人をイエスの十字架刑での処刑において
聖いものとみなし、
一人一人に、
もう一人の方、聖である霊と呼ばれる方を派遣して、
私たち一人一人の内に聖である霊と呼ばれる方が
お住みになるようにして下さるのだそうです。
私たち一人一人を、聖である霊と呼ばれる方の神殿とされる
というのですね。
私たち、人間は、天の神、主、
父である神と呼ばれる方、御子である神と呼ばれる方、
聖である霊と呼ばれる方が、
それぞれ、全知であり、全能であり、
永遠・不変の方でありながら、
愛と尊敬のゆえに、自発的に、自分から進んで、
心を明かし合い、思いを一つにし合い、
行動を一つにしておられる、
その一つに加わる者をと望まれて
創造されたものなのだそうですが(創世記1:26)、
最初の人アダムは、
天の神、主と一つになっていることでは満足せず、
神のようになり、善悪を知る者になろうとし(創世記3:5)、
神の一人のように善悪を知る者となり(創世記3:22)、
天の神、主に対抗して、自分の善悪の判断をおし進め、
自分が一番上に立ち、自分一人がすべての良いものを独占し、
自分の判断のとおりに他を従わせようとする者になったのだそうです。
それで、自分よりも優れた者に対しては、
これを妬み、これを憎み、殺す者となったようです(創世記4:1~8、23~24)。
そのように、創造の目的から大きく外れてしまった私たち人間ですから、
ちょうど、陶器製作者が、思ったとおりに出来なかった陶器を
投げ捨て打ち砕いて、廃棄処分にするように、
私たちも廃棄処分になり、ゲヘナ(ベンヒンノムの谷、エルサレムから出るごみの焼却場)で、生ごみとして焼却処分されても当然の者なのに、
天の神、主は、なお、私たち人間を惜しんで、
私たちがご自分と思いを一つにする者になるようにと、
ご自身の側で一方的に、道を開いて下さったのだそうです。
まず、聖である方が私たちに触れても、
私たちが、この外れのゆえに滅びてしまわないようにと、
御子である神と呼ばれる方を人間イエスとして人の世に生まれさせ、
この方がおよそ33歳の頃、この方を十字架刑で処刑して、
私たち人間のそむきの罪を処罰したものとの手続きを済ませて下さり、
聖である霊と呼ばれる方が触れられても
私たちが滅びてしまわないようにして下さった上で、
約束の言葉のとおりに、
聖である霊と呼ばれる方を派遣して下さって、
私たち人間のひとり一人の内に住まわせて下さり、
この方によって、ご自身の思いを私たち一人一人の心に
書き記して下さって、
私たちがご自身と思いを一つにして生きる者にとして下さるのだそうです(エレミヤ31:33、エゼキエル36:26~27、ヨハネ17:21~23)。
聖である霊と呼ばれる方が住まわれる神殿、
神の宮となった私たち一人一人に、
天の神、主は、夜も昼も目を注ぎ、見守っていて下さり、
私たちの呼びかける声を聞いて下さり、
導いて下さるのだそうですね。
今日も。
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仰せになった所です。列王記上8:29
キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。
もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、
私たちこそ神の家なのです。ヘブル書3:6
(ローズンゲン日々の聖句7/7;火)
神殿、それは天の神、主が住まわれるところ。
しかし、壮麗をきわめたソロモンの神殿においてさえ、
ソロモン王自身が言っているように、
「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。
実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。
まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです」、
なのですね。
それなのに、天の神、主は、
私たち人間の一人一人をイエスの十字架刑での処刑において
聖いものとみなし、
一人一人に、
もう一人の方、聖である霊と呼ばれる方を派遣して、
私たち一人一人の内に聖である霊と呼ばれる方が
お住みになるようにして下さるのだそうです。
私たち一人一人を、聖である霊と呼ばれる方の神殿とされる
というのですね。
私たち、人間は、天の神、主、
父である神と呼ばれる方、御子である神と呼ばれる方、
聖である霊と呼ばれる方が、
それぞれ、全知であり、全能であり、
永遠・不変の方でありながら、
愛と尊敬のゆえに、自発的に、自分から進んで、
心を明かし合い、思いを一つにし合い、
行動を一つにしておられる、
その一つに加わる者をと望まれて
創造されたものなのだそうですが(創世記1:26)、
最初の人アダムは、
天の神、主と一つになっていることでは満足せず、
神のようになり、善悪を知る者になろうとし(創世記3:5)、
神の一人のように善悪を知る者となり(創世記3:22)、
天の神、主に対抗して、自分の善悪の判断をおし進め、
自分が一番上に立ち、自分一人がすべての良いものを独占し、
自分の判断のとおりに他を従わせようとする者になったのだそうです。
それで、自分よりも優れた者に対しては、
これを妬み、これを憎み、殺す者となったようです(創世記4:1~8、23~24)。
そのように、創造の目的から大きく外れてしまった私たち人間ですから、
ちょうど、陶器製作者が、思ったとおりに出来なかった陶器を
投げ捨て打ち砕いて、廃棄処分にするように、
私たちも廃棄処分になり、ゲヘナ(ベンヒンノムの谷、エルサレムから出るごみの焼却場)で、生ごみとして焼却処分されても当然の者なのに、
天の神、主は、なお、私たち人間を惜しんで、
私たちがご自分と思いを一つにする者になるようにと、
ご自身の側で一方的に、道を開いて下さったのだそうです。
まず、聖である方が私たちに触れても、
私たちが、この外れのゆえに滅びてしまわないようにと、
御子である神と呼ばれる方を人間イエスとして人の世に生まれさせ、
この方がおよそ33歳の頃、この方を十字架刑で処刑して、
私たち人間のそむきの罪を処罰したものとの手続きを済ませて下さり、
聖である霊と呼ばれる方が触れられても
私たちが滅びてしまわないようにして下さった上で、
約束の言葉のとおりに、
聖である霊と呼ばれる方を派遣して下さって、
私たち人間のひとり一人の内に住まわせて下さり、
この方によって、ご自身の思いを私たち一人一人の心に
書き記して下さって、
私たちがご自身と思いを一つにして生きる者にとして下さるのだそうです(エレミヤ31:33、エゼキエル36:26~27、ヨハネ17:21~23)。
聖である霊と呼ばれる方が住まわれる神殿、
神の宮となった私たち一人一人に、
天の神、主は、夜も昼も目を注ぎ、見守っていて下さり、
私たちの呼びかける声を聞いて下さり、
導いて下さるのだそうですね。
今日も。
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