マタイによる福音書25章31節~46節に、
今から、およそ2000年ほど前、ローマ兵によって十字架刑で処刑されたイエスが、
すべての御使いを従えて、もう一度、来られ、
すべての国々の民が、その御前に集められ、右と左に分けられる、
羊飼いが羊とヤギを分けるように分けられるということが起こる、という、イエスの話しが記録されています。
そして、右の人、羊とされた人には、
「さあ、わたしの父に祝福された人たち。
世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」とおっしゃられ、
左の、山羊とされた人たちには、
「呪われた者ども、
わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ」と判決を言い渡される、
というのです。
つまり、この箇所では、イエスが、神の国(天国)を受け継ぐ人と、永遠の火(私たちがよく言う地獄)に放り込まれる人を分ける時が来ると、おっしゃっておられるようです。
天国へ入れてもらえるか、地獄に放り込まれるか、
私たちは、簡単に、「イエス様を信じて洗礼を受けたから、天国へ入れてもらえる」と教えられ、そう思っています。
しかし、イエス様は、この箇所で、さらに深く、「では、イエスを信じる」とはどういうことか、ということを話しておられるのかもしれません。
この聖書の箇所に関連させて、「イエスを信じる」とはどういうことか、を見ていくとき、
それは、聖書で「肉」と書かれ、「生まれた時からの霊」と言われている私自身を、イエス様の十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだもの、としていただくこと、
そして、その十字架で処刑され、三日目に墓より復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国について教えられ、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを示され、オリーブ山から、弟子たちが見ている前で雲に迎えられ(使徒2:3~12)、天の、父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる、
新しい霊、「聖である霊」と呼ばれる神をお迎えし(ヨハネ14:16、使徒2:33)、この方によって、律法(文字にされた、原則としての律法、あるいはロゴス)の奥にある神の御思いに基づく、一つ一つの具体的な思い、あるいはレーマ〔話し言葉〕)、そのとき、その時の、この人、あの人に対する父である神の御思いを心に書き付け、置いていただいて、その部分において父である神と同じ思いを思い、心を一つにし、父である神が私を通してしようと思っていらっしゃることをする、一つ行動をとる者としていただくこと(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~31、ヘブル10:12~19)を受け取ることまで含まれるのでしょうか。
それで、「聖である霊」と呼ばれる神によって心に来た、「空腹である人を見た時、食べ物をあげようかな」という父である神からの思い、「渇いている人を見て、飲み物をあげようかな」という父である神からの思い、「旅人に、宿を貸してあげたいな」、「裸の人に、着る物をあげようか」、「病気の人を見舞ってあげようか」、「牢にいる人を尋ねてあげようか」という、心に来た父である神の御思いに従い、その思いを行動に移した人、
それが、イエスが言われる、右側に置かれた、羊とされた人なのでしょうか。
すると、左側に置かれた、山羊とされた人は、
イエスの十字架刑で処刑での処刑による、私自身の処刑を不要とし、無視し、受け取ろうとしない人もそうなのでしょうが、
「イエスの十字架で私の罪は赦されました。これで私は天国に行けます。ハレルヤ」だけで留まってしまって、「聖である霊」と呼ばれる方が心に置いてくださる、「父である神」が、そのとき、その時に、この私を通してしたいなと思われる御思い、「空腹の人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、旅人を泊まらせ、裸の人に着せ、病気の人、牢にいる人を訪ねる」御思いについて行こうとしないで、
「肉」と言われている「生まれた時からの霊」から出てくる思いのほうで行動している人のことなのかもしれません。
羊は、自分で自分を守ることのできない、放っておかれると迷ってしまう弱い存在、
羊飼いの声についていく従順の象徴。
山羊は、自分の思いのままに山を駆け回り、
羊飼いの声など聞こうとしない者の象徴なのでしょうか。
私たち、日々に、
自分は「神のひとりのように、なんでも知っている者に、なんでもできる者に、いつまでも生きている者になろう。
善悪を知る者、自分一人の理性の判断で善悪を決め、その判断のとおりを実現しよう」(創世記3:5、22)と思う者、
「私は天に上ろう。
神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
北の果てにある会合の山、天の神、主と天使たちの会合の席に議長として座ろう。
密雲の頂、天の神、主の御座よりも上に上り、いと高き方のようになろう」(イザヤ14:13~14)としている者の性格を受け継いでいる者であること、
山羊のように「うなじのこわい」、自分の考えを押し通し、言われることを聞こうとしない者で、地獄の火に投げ込まれるはずの者であることを、日々の具体的な出来事の中で認め、
そのたびごとに、イエスの十字架刑で、その私自身も、処刑されていることを受け取り、
「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、
羊のように、御思いについて行く歩みを、一歩、踏み出し、
天の神、主が、私を通して、今、しようと思っていらっしゃることをして行けますように。
イエスから、羊と認められ、「良い、忠実なしもべよ。よくやった。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21)と言っていただけますように。
今日も。
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今から、およそ2000年ほど前、ローマ兵によって十字架刑で処刑されたイエスが、
すべての御使いを従えて、もう一度、来られ、
すべての国々の民が、その御前に集められ、右と左に分けられる、
羊飼いが羊とヤギを分けるように分けられるということが起こる、という、イエスの話しが記録されています。
そして、右の人、羊とされた人には、
「さあ、わたしの父に祝福された人たち。
世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」とおっしゃられ、
左の、山羊とされた人たちには、
「呪われた者ども、
わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ」と判決を言い渡される、
というのです。
つまり、この箇所では、イエスが、神の国(天国)を受け継ぐ人と、永遠の火(私たちがよく言う地獄)に放り込まれる人を分ける時が来ると、おっしゃっておられるようです。
天国へ入れてもらえるか、地獄に放り込まれるか、
私たちは、簡単に、「イエス様を信じて洗礼を受けたから、天国へ入れてもらえる」と教えられ、そう思っています。
しかし、イエス様は、この箇所で、さらに深く、「では、イエスを信じる」とはどういうことか、ということを話しておられるのかもしれません。
この聖書の箇所に関連させて、「イエスを信じる」とはどういうことか、を見ていくとき、
それは、聖書で「肉」と書かれ、「生まれた時からの霊」と言われている私自身を、イエス様の十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだもの、としていただくこと、
そして、その十字架で処刑され、三日目に墓より復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国について教えられ、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを示され、オリーブ山から、弟子たちが見ている前で雲に迎えられ(使徒2:3~12)、天の、父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる、
新しい霊、「聖である霊」と呼ばれる神をお迎えし(ヨハネ14:16、使徒2:33)、この方によって、律法(文字にされた、原則としての律法、あるいはロゴス)の奥にある神の御思いに基づく、一つ一つの具体的な思い、あるいはレーマ〔話し言葉〕)、そのとき、その時の、この人、あの人に対する父である神の御思いを心に書き付け、置いていただいて、その部分において父である神と同じ思いを思い、心を一つにし、父である神が私を通してしようと思っていらっしゃることをする、一つ行動をとる者としていただくこと(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~31、ヘブル10:12~19)を受け取ることまで含まれるのでしょうか。
それで、「聖である霊」と呼ばれる神によって心に来た、「空腹である人を見た時、食べ物をあげようかな」という父である神からの思い、「渇いている人を見て、飲み物をあげようかな」という父である神からの思い、「旅人に、宿を貸してあげたいな」、「裸の人に、着る物をあげようか」、「病気の人を見舞ってあげようか」、「牢にいる人を尋ねてあげようか」という、心に来た父である神の御思いに従い、その思いを行動に移した人、
それが、イエスが言われる、右側に置かれた、羊とされた人なのでしょうか。
すると、左側に置かれた、山羊とされた人は、
イエスの十字架刑で処刑での処刑による、私自身の処刑を不要とし、無視し、受け取ろうとしない人もそうなのでしょうが、
「イエスの十字架で私の罪は赦されました。これで私は天国に行けます。ハレルヤ」だけで留まってしまって、「聖である霊」と呼ばれる方が心に置いてくださる、「父である神」が、そのとき、その時に、この私を通してしたいなと思われる御思い、「空腹の人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、旅人を泊まらせ、裸の人に着せ、病気の人、牢にいる人を訪ねる」御思いについて行こうとしないで、
「肉」と言われている「生まれた時からの霊」から出てくる思いのほうで行動している人のことなのかもしれません。
羊は、自分で自分を守ることのできない、放っておかれると迷ってしまう弱い存在、
羊飼いの声についていく従順の象徴。
山羊は、自分の思いのままに山を駆け回り、
羊飼いの声など聞こうとしない者の象徴なのでしょうか。
私たち、日々に、
自分は「神のひとりのように、なんでも知っている者に、なんでもできる者に、いつまでも生きている者になろう。
善悪を知る者、自分一人の理性の判断で善悪を決め、その判断のとおりを実現しよう」(創世記3:5、22)と思う者、
「私は天に上ろう。
神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
北の果てにある会合の山、天の神、主と天使たちの会合の席に議長として座ろう。
密雲の頂、天の神、主の御座よりも上に上り、いと高き方のようになろう」(イザヤ14:13~14)としている者の性格を受け継いでいる者であること、
山羊のように「うなじのこわい」、自分の考えを押し通し、言われることを聞こうとしない者で、地獄の火に投げ込まれるはずの者であることを、日々の具体的な出来事の中で認め、
そのたびごとに、イエスの十字架刑で、その私自身も、処刑されていることを受け取り、
「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、
羊のように、御思いについて行く歩みを、一歩、踏み出し、
天の神、主が、私を通して、今、しようと思っていらっしゃることをして行けますように。
イエスから、羊と認められ、「良い、忠実なしもべよ。よくやった。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21)と言っていただけますように。
今日も。
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