お前たちの罪が恵みを退けたのだ。エレミヤ書5:25
徴税人は遠くに立って、
目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
「神様、罪びとの私を憐れんでください。」ルカ18:13
イザヤ書26:1~6
民数記12:1~16(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句9/2;土)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方はエレミヤを通して言われます。
「エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。
その広場で捜して、だれか公義を行い、真実を求める者を見つけたら、
わたしはエルサレムを赦そう。
たとい彼らが『主は生きておられる』と言っても、
実は、彼らは偽って誓っているのだ。」
主よ。あなたの目は、真実に向けられていないのでしょうか。
あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。
彼らを断ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けようともしませんでした。
彼らは顔を岩よりも堅くし、悔い改めようともしませんでした。
身分の高い者のところへ行っても、彼らもみな、くびきを砕き、縄目を断ち切っていました。
「彼らが多くの罪を犯し、その背信ははなはだしかった。
これでは、どうして、わたしがあなたを赦せよう。
あなたの子らはわたしを捨て、神でないものによって誓っていた。
わたしが彼らを満ち足らせたときも、彼らは姦通し、遊女の家で実を傷つけた。
彼らは、肥え太ってさかりのついた馬のように、おのおの隣の妻を慕っていななく。
これらに対して、わたしが罰しないだろうか。
――主の御告げ――
このような国に、わたしが復讐しないだろうか。
イスラエルの家とユダの家とは、大いにわたしを裏切った。
――主の御告げ――
彼らは主を否んでこう言った。
『主がなんだ。わざわいは私たちを襲わない。
剣も飢饉も、私たちは、見はしない。』
イスラエルの家よ。
見よ。わたしはあなたがたを攻めに、遠くの地から一つの国民を連れて来る。
――主の御告げ――
それは古くからある国、昔からある国、その矢筒は開いた墓のようだ。
彼らはみなつわもの。
彼らはあなたの借り入れたものと、あなたのパンを食らい、
あなたの息子、娘を食らい、
あなたの羊の群れと牛の群れを食らい、
あなたのぶどうと、いちじくを食らい、
あなたの拠り頼む城壁のある町々を剣で打ち破る。
しかし、その日にも
――主の御告げ――
わたしはあなたがたを、ことごとくは滅ぼさない。」
「あなたがたが、『何のために、私たちの神、主は、これらすべてのことをしたのか』と尋ねるときは、
あなた(エレミヤ)は彼らにこう言え。
『あなたがたが、わたしを捨て、あなたがたの国内で、外国の神々に仕えたように、
あなたがたの国でない地で、他国人に仕えるようになる。』
この民には、かたくなで、逆らう心があり、彼らはそむいて去って行った。
彼らは心の中でも、こう言わなかった。
『さあ、私たちの神、主を恐れよう。
主は大雨を、先の雨と後の雨を、季節に従って与え、
刈り入れのために定められた数週を私たちのために守ってくださる』と。
あなたがたの咎(とが)が、これを追い払い、あなたがたの罪が、この良い物を拒んだのだ」と。
それで、そのバビロンの捕囚を経て、
そのような者になるまいと、
今度は、自分の力で神の戒めを守り、神に熱心な者になろうと一生懸命に努力する人たちが起こったのだそうですが、
その人々も、神のお心を求めるのではなく、
自分の理性の善悪の判断で、自分の善しとするところを行うばかりで、
神の御心からは遠く離れ、
神に仕えているつもりで、ついには、神が遣わされた方を拒否し、殺すことにもなったのだそうです。
私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、〔生まれた時からの私〕という私自身は、
このように天の神、主に逆らい、対立、対抗する者であることを認めて、
あの取税人(徴税人)のように、「神様、罪びと(的外れ)の私をお赦しください」と、
天の神、主の憐れみにすがっていいのだそうです。
この方に信頼して(イザヤ26:4)、この方が用意してくださっている、イエスの十字架刑での処刑に自分を合わせていただき、
〔生まれた時からの私〕という私自身である霊を処刑されたもの、死んだものとしていただけるのだそうですから。
そして、三日目に死者の中から復活し、天の、父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕の私たち一人一人に対する御思いを、私たちの心に置いてくださり、
私たちが〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になるようにしてくださるのだそうですから。
それで、私たちも、〔父である神〕が私たちを通してしようと思われることをしていく者ともしていただけて、
モーセのように、天の神、主に忠実な者、天の神、主が口と口とで語ってくださる、御顔を仰ぎ見る者(民数記12:7~8)ともしていただけるのだそうですから。
今日も。
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徴税人は遠くに立って、
目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
「神様、罪びとの私を憐れんでください。」ルカ18:13
イザヤ書26:1~6
民数記12:1~16(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句9/2;土)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方はエレミヤを通して言われます。
「エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。
その広場で捜して、だれか公義を行い、真実を求める者を見つけたら、
わたしはエルサレムを赦そう。
たとい彼らが『主は生きておられる』と言っても、
実は、彼らは偽って誓っているのだ。」
主よ。あなたの目は、真実に向けられていないのでしょうか。
あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。
彼らを断ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けようともしませんでした。
彼らは顔を岩よりも堅くし、悔い改めようともしませんでした。
身分の高い者のところへ行っても、彼らもみな、くびきを砕き、縄目を断ち切っていました。
「彼らが多くの罪を犯し、その背信ははなはだしかった。
これでは、どうして、わたしがあなたを赦せよう。
あなたの子らはわたしを捨て、神でないものによって誓っていた。
わたしが彼らを満ち足らせたときも、彼らは姦通し、遊女の家で実を傷つけた。
彼らは、肥え太ってさかりのついた馬のように、おのおの隣の妻を慕っていななく。
これらに対して、わたしが罰しないだろうか。
――主の御告げ――
このような国に、わたしが復讐しないだろうか。
イスラエルの家とユダの家とは、大いにわたしを裏切った。
――主の御告げ――
彼らは主を否んでこう言った。
『主がなんだ。わざわいは私たちを襲わない。
剣も飢饉も、私たちは、見はしない。』
イスラエルの家よ。
見よ。わたしはあなたがたを攻めに、遠くの地から一つの国民を連れて来る。
――主の御告げ――
それは古くからある国、昔からある国、その矢筒は開いた墓のようだ。
彼らはみなつわもの。
彼らはあなたの借り入れたものと、あなたのパンを食らい、
あなたの息子、娘を食らい、
あなたの羊の群れと牛の群れを食らい、
あなたのぶどうと、いちじくを食らい、
あなたの拠り頼む城壁のある町々を剣で打ち破る。
しかし、その日にも
――主の御告げ――
わたしはあなたがたを、ことごとくは滅ぼさない。」
「あなたがたが、『何のために、私たちの神、主は、これらすべてのことをしたのか』と尋ねるときは、
あなた(エレミヤ)は彼らにこう言え。
『あなたがたが、わたしを捨て、あなたがたの国内で、外国の神々に仕えたように、
あなたがたの国でない地で、他国人に仕えるようになる。』
この民には、かたくなで、逆らう心があり、彼らはそむいて去って行った。
彼らは心の中でも、こう言わなかった。
『さあ、私たちの神、主を恐れよう。
主は大雨を、先の雨と後の雨を、季節に従って与え、
刈り入れのために定められた数週を私たちのために守ってくださる』と。
あなたがたの咎(とが)が、これを追い払い、あなたがたの罪が、この良い物を拒んだのだ」と。
それで、そのバビロンの捕囚を経て、
そのような者になるまいと、
今度は、自分の力で神の戒めを守り、神に熱心な者になろうと一生懸命に努力する人たちが起こったのだそうですが、
その人々も、神のお心を求めるのではなく、
自分の理性の善悪の判断で、自分の善しとするところを行うばかりで、
神の御心からは遠く離れ、
神に仕えているつもりで、ついには、神が遣わされた方を拒否し、殺すことにもなったのだそうです。
私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、〔生まれた時からの私〕という私自身は、
このように天の神、主に逆らい、対立、対抗する者であることを認めて、
あの取税人(徴税人)のように、「神様、罪びと(的外れ)の私をお赦しください」と、
天の神、主の憐れみにすがっていいのだそうです。
この方に信頼して(イザヤ26:4)、この方が用意してくださっている、イエスの十字架刑での処刑に自分を合わせていただき、
〔生まれた時からの私〕という私自身である霊を処刑されたもの、死んだものとしていただけるのだそうですから。
そして、三日目に死者の中から復活し、天の、父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕の私たち一人一人に対する御思いを、私たちの心に置いてくださり、
私たちが〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になるようにしてくださるのだそうですから。
それで、私たちも、〔父である神〕が私たちを通してしようと思われることをしていく者ともしていただけて、
モーセのように、天の神、主に忠実な者、天の神、主が口と口とで語ってくださる、御顔を仰ぎ見る者(民数記12:7~8)ともしていただけるのだそうですから。
今日も。
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