朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

取り次いで欲しいのだそうです。祝福の言葉を。

2015-06-01 23:59:13 | 聖書から
モーセはヨシュアに言った。
私は主が霊を授けて、主の民全てが
預言者になればよいと切望している。民数記11:29

 愛を追い求めなさい。
霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
預言する者は、人に向かって語っているので、
人を造り上げ、励まし、慰めます。Ⅰコリント14:1~3

             (ローズンゲン日々の聖句6/2;火)

 イエスが十字架刑で処刑されて下さったことによって私たち、人間の背きの罪の処罰が完了し、聖である霊と呼ばれるもう一人の助け主が私たちのところに来て下さるようになって、私たちが、その方が語らせられるままに語るようになるとき(使徒2:4)、それが異言になったり、預言になったり、知恵の言葉、知識の言葉と呼ばれるもののかたちで現れたりするのだそうです。

 異言は、神に向かって語り、話す者自身の徳を高めることになりますが、預言は、天の神、主が、その誰かに、徳を高め、勧め、慰めの言葉をかけようと思っておられる、その思いが私たちの心に来て、私たちがそれを口にすることなので、人に向かって語ることになるのだそうです。

 それで、使徒パウロは、すべての人が異言を話すことを望むけれど、それよりも預言する者になった欲しいと言っているのですね(Ⅰコリント14:1~5)

 けれども、料理をする人がみな、料理人ではないように、預言する者が皆、預言者であるわけではないようです。預言者として立てられている人を用いてされる預言と、一般的な私たちを用いてされる預言とではレベルが違うようです。

 また、預言するといっても、私たちの知るところは、ほんの一部分であり、天の神、主が語らせようと思われるその部分においてであることを忘れないで、自分が何か力ある者、偉い者になったかのように思い違いをしないように心しないといけないようです。

 天の神、主は、だれかを祝福し、励まし、慰める言葉を、聖である霊と呼ばれる方によって私たちの心の思いに置いて下さるのだそうです。

この方が語らせられるままに語っていきたいですね。祝福の言葉を。
今日も。

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