主に従う人には災いが重なるが、
主はそのすべてから救い出してくださる。詩34:20
パウロの手紙:
知ってのとおり、
私たちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、
私たちの神に勇気づけられ、
激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。Ⅰテサロニケ2:2
Ⅰコリント9:16~23
使徒25:1~12(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句8/17;木)
正しい者、主に従う人には悩みが多いのだそうです。
しかし、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
そのすべての災い、悩みから救い出してくださるのだそうです。
パウロも、ピリピで、神のあわれみによるイエスの救いを宣べ伝えたのだそうです。
そこに、占いの霊につかれた女性がいて、パウロたちのあとについて来て、
「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続け、それが幾日も続くので、
困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、
「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言うと、
即座に、その霊が出て行ったのだそうです。
それで、彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、
役人たちに訴えるために広場へ引き立て、長官たちに引き渡したのだそうです。
群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむち打ち、牢に入れたのだそうです(使徒16:11~40)。
そこで、牢番とその家族がイエスを受け入れるということも起こりましたが、
パウロはこの時のことを、「苦しめられ、はずかしめられたけれども、私たちの神に勇気づけられ、激しい苦闘のなかで」とテサロニケの弟子たちへの手紙に書いているのですね。
パウロは、コリントの弟子たちに宛てた手紙に書いています。
「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。
それはユダヤ人を獲得するためです。
律法の下にある人々には、私自身は律法の下にいませんが、律法の下にある者のようになりました。
それは律法の下にある人々を獲得するためです。
律法を持たない人々に対しては、
――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが――
律法を持たない者のようになりました。
それは律法を持たない人々を獲得するためです。
弱い人々には、弱い者になりました。
弱い人々を獲得するためです。
すべての人に、すべてのものとなりました。
それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
私はすべてのことを、福音のためにしています。
それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです」(Ⅰコリント9:16~23)と。
〔聖である霊〕と呼ばれる方の迫りの中でエルサレムに上ったパウロ。
そこで、ユダヤ人たちに捕らえられ、殺されそうになるのを、
エルサレムを治めていたローマの千人隊長によって保護され、
カイザリヤにいたローマ総督ペリクスのもとに護送されたのですが、
ペリクスは、パウロに罪がないのことが分かりながら、ユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロを牢につないだままにしておいたのだそうです。
2年後にペリクスの後任として来たポルキオ・フェストも、ユダヤ人の歓心を買おうとして、行けば殺されてしまうであろうエルサレムに上り、裁判を受けるかと切り出したので、
パウロは、カイザル(ローマ皇帝)に上訴し(パウロはローマの市民権を持っていたので)、
ローマで、カイザルの法廷で裁かれる道を選んだのだそうです(使徒25:1~12)。
このように、主に従う人、神の御用をしていくときには、災いや悩み、困難が多いこともありますが、
天の神、主は、そのすべてから救い出してくださり、御思いを実現してくださるのだそうです。
私たちにも。
今日も。
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主はそのすべてから救い出してくださる。詩34:20
パウロの手紙:
知ってのとおり、
私たちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、
私たちの神に勇気づけられ、
激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。Ⅰテサロニケ2:2
Ⅰコリント9:16~23
使徒25:1~12(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句8/17;木)
正しい者、主に従う人には悩みが多いのだそうです。
しかし、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
そのすべての災い、悩みから救い出してくださるのだそうです。
パウロも、ピリピで、神のあわれみによるイエスの救いを宣べ伝えたのだそうです。
そこに、占いの霊につかれた女性がいて、パウロたちのあとについて来て、
「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続け、それが幾日も続くので、
困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、
「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言うと、
即座に、その霊が出て行ったのだそうです。
それで、彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、
役人たちに訴えるために広場へ引き立て、長官たちに引き渡したのだそうです。
群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむち打ち、牢に入れたのだそうです(使徒16:11~40)。
そこで、牢番とその家族がイエスを受け入れるということも起こりましたが、
パウロはこの時のことを、「苦しめられ、はずかしめられたけれども、私たちの神に勇気づけられ、激しい苦闘のなかで」とテサロニケの弟子たちへの手紙に書いているのですね。
パウロは、コリントの弟子たちに宛てた手紙に書いています。
「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。
それはユダヤ人を獲得するためです。
律法の下にある人々には、私自身は律法の下にいませんが、律法の下にある者のようになりました。
それは律法の下にある人々を獲得するためです。
律法を持たない人々に対しては、
――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが――
律法を持たない者のようになりました。
それは律法を持たない人々を獲得するためです。
弱い人々には、弱い者になりました。
弱い人々を獲得するためです。
すべての人に、すべてのものとなりました。
それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
私はすべてのことを、福音のためにしています。
それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです」(Ⅰコリント9:16~23)と。
〔聖である霊〕と呼ばれる方の迫りの中でエルサレムに上ったパウロ。
そこで、ユダヤ人たちに捕らえられ、殺されそうになるのを、
エルサレムを治めていたローマの千人隊長によって保護され、
カイザリヤにいたローマ総督ペリクスのもとに護送されたのですが、
ペリクスは、パウロに罪がないのことが分かりながら、ユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロを牢につないだままにしておいたのだそうです。
2年後にペリクスの後任として来たポルキオ・フェストも、ユダヤ人の歓心を買おうとして、行けば殺されてしまうであろうエルサレムに上り、裁判を受けるかと切り出したので、
パウロは、カイザル(ローマ皇帝)に上訴し(パウロはローマの市民権を持っていたので)、
ローマで、カイザルの法廷で裁かれる道を選んだのだそうです(使徒25:1~12)。
このように、主に従う人、神の御用をしていくときには、災いや悩み、困難が多いこともありますが、
天の神、主は、そのすべてから救い出してくださり、御思いを実現してくださるのだそうです。
私たちにも。
今日も。
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