私は、
集会の中であなたを賛美します。詩編22:23
忍耐と慰めの源である神が、
あなたがたをキリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、
心を合わせ声をそろえて、
私たちの主イエス・キリストの神であり、父である方を
たたえさせてくださいますように。ロマ書15:5~6
マルコ13:1~8
Ⅱコリント13:1~13
(ローズンゲン日々の聖句11/12;土)
詩人はうたうのですね。
主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。
ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。
イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。
まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、
御顔を隠されもしなかった。
むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。
大会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。
私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。
悩む者は、食べて、満ち足り、
主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。(詩篇22:23~26新改訳)と。
イエスは弟子たちに言われたのだそうです。
「エルサレムの神殿、石造りのその大きな建物の石が、くずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」と。
そして、「わたしの名(キリスト)を名のる者がおおぜい現れ、『私こそ、それ(キリスト)だ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。
それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
民族は民族に、国は国に対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。(マルコ13:1~8)」と。
この世の中は、この言葉のように動いていくようです。
私たちに、その、世の中に生きて、イエス・キリストの神であり、父である方をほめたたえさせてくださるのは神御自身なのだそうです。
イエスの十字架刑での処刑を通して、私たちに来てくださる「聖である霊」と呼ばれる方。
その方が、受け入れる者の心に、「父である神」が私たちひとり一人に思っておられる御思いを思わせて下さるのだそうですから。
そして、「聖である霊」と呼ばれる方ご自身が、「父である神」を、「御子である神」をほめたたえておられる、そのご自身の賛美の思いも、受け入れる者の心に来させてくださるのだそうですから。
この方がほめたたえておられる、その賛美の同じ思いが受け入れる者の心に来て、受け入れる者は同じ賛美の心になるのだそうですから。
あの、ヨハネが見た、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの、白い衣を着、棕櫚の枝を手に持って、御座と小羊との前に立って賛美している天の大群衆のように(黙示録7:9~17)。
今日も。
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集会の中であなたを賛美します。詩編22:23
忍耐と慰めの源である神が、
あなたがたをキリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、
心を合わせ声をそろえて、
私たちの主イエス・キリストの神であり、父である方を
たたえさせてくださいますように。ロマ書15:5~6
マルコ13:1~8
Ⅱコリント13:1~13
(ローズンゲン日々の聖句11/12;土)
詩人はうたうのですね。
主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。
ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。
イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。
まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、
御顔を隠されもしなかった。
むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。
大会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。
私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。
悩む者は、食べて、満ち足り、
主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。(詩篇22:23~26新改訳)と。
イエスは弟子たちに言われたのだそうです。
「エルサレムの神殿、石造りのその大きな建物の石が、くずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」と。
そして、「わたしの名(キリスト)を名のる者がおおぜい現れ、『私こそ、それ(キリスト)だ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。
それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
民族は民族に、国は国に対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。(マルコ13:1~8)」と。
この世の中は、この言葉のように動いていくようです。
私たちに、その、世の中に生きて、イエス・キリストの神であり、父である方をほめたたえさせてくださるのは神御自身なのだそうです。
イエスの十字架刑での処刑を通して、私たちに来てくださる「聖である霊」と呼ばれる方。
その方が、受け入れる者の心に、「父である神」が私たちひとり一人に思っておられる御思いを思わせて下さるのだそうですから。
そして、「聖である霊」と呼ばれる方ご自身が、「父である神」を、「御子である神」をほめたたえておられる、そのご自身の賛美の思いも、受け入れる者の心に来させてくださるのだそうですから。
この方がほめたたえておられる、その賛美の同じ思いが受け入れる者の心に来て、受け入れる者は同じ賛美の心になるのだそうですから。
あの、ヨハネが見た、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの、白い衣を着、棕櫚の枝を手に持って、御座と小羊との前に立って賛美している天の大群衆のように(黙示録7:9~17)。
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