朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

心が替わるので、口から出て来る言葉も替わり

2017-11-03 23:03:31 | 聖書から
御力を表される主をあがめよ。
力ある御業をたたえて、
我らは賛美の歌をうたう。詩21:14

 人の口は、
心からあふれ出ることを語るのである。ルカ6:45

 箴言3:1~8
 エゼキエル書18:1~3、20~32(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句11/4;土)

 人の口は、心に満ちているもの、心からあふれ出ることを語るのだそうです。
〔聖である霊〕と呼ばれる方の御思いが満ちるとき、
私たちの心にも、主をあがめ、たたえて、賛美の歌を歌う思いが満ち、
あふれ出るようになるのだそうです。
私たちは自分を知恵ある者と思い(箴言3:7)、
〔生まれた時からの私〕という霊から来る思いで心が満ち、
それが口から出て来る者です。

 
けれども、その、私自身である〔生まれた時からの私〕という霊を
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、
死んだものとしていただくのだそうです。

そして、この〔生まれた時からの私〕という霊から出て来る思いを、
イエスの御前に放り出し、かなぐり捨てて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方から来る御思いのほうを
私の思いとしていくのだそうです(エゼキエル18:31)。

その思いが心に満ち、あふれ出し、
賛美の歌が口から出て来るほどに。
今日も。
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「私が語り、わたしが行う」と言われる方が

2017-11-03 06:36:02 | 聖書から
主よ、なぜ遠く離れて立ち、
苦難の時に隠れておられるのか。詩10:1

 イエスは大声で叫ばれた。
「わが神、わが神、
なぜわたしをお見捨てになったのですか。」マルコ15:34

 ヨハネ18:28~32
 エゼキエル17:1~24(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句11/3;金・祝)

 天の神、主が、遠くに行ってしまわれ、
私たちの悩みの時、苦難の時に身を隠してしまわれ、
私たちの叫びに答えてくださらないように思えるときがあるのですね。

イエスが、十字架に架かられたのは、過ぎ越しの祭りの大事な安息日の前の日、
金曜日の、朝の9時頃だったそうです(マルコ15:25)。
そして、午後の3時頃、
イエスはこのように「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて、
息を引き取られたのだそうです。

 この時、私たちのそむきと「的外れ」の責任のすべてがイエスの上に移り、
永遠の昔から片時も離れたことのなかった〔父である神〕から、
反逆する者として切り離された、ということなのでしょうね。
イエスが弟子たちに、
自分がどのような死に方をするのか示して話されていたとおりに(ヨハネ18:28~32)。

けれども、このイエスの十字架刑での死、
イエスが〔父である神〕から切り離されてくださったことによって、
私たちのそむき、「的外れ」が赦され、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちに来て下さる道が開け、
私たちが〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにして生きることができるようになったのだそうですから。

 たしかに、天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方は、
どこかへ行ってしまわれたわけではなく、
語ったこと、聖書で預言されたことを、
そのとおりに行われている方なのですね(エゼキエル17:24)。
私の上にも。
今日も。
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