神をたたえよ。
神は私の祈りを退けることなく
慈しみを拒まれなかった。詩66:20(5/21の週の聖句)
主はソロモンに、
「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。
「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、
この僕に聞き分ける心をお与えください。」列王記上3:5、9
あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、
だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。
そうすれば、与えられます。ヤコブ書1:5
ヨハネ16:23b~28(29~32)33
詩30(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/21;Ⅲ日)
あなたたちの耕作地を開拓せよ。
いばらの中に種を蒔くな。エレミヤ書4:3
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。
むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、
何が神の御心であるか、
何が善いことで、神に喜ばれ、
また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。ロマ書12:2
マルコ1:32~39
使徒2:42~47(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/22;月)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちの祈りを聞きれ、心に留めてくださる方、何でも願えと言ってくださる方なのだそうですね。
ダビデ王の跡を継いでイスラエルの王となった、若いソロモン。
天の神、主から、何事でも願え。与えようと言われた時、
自分のための長寿、富や敵の命を求めず、民を正しく治める知恵を求めたのだそうです。
天の神、主は、それを非常に喜ばれ、おおせられたのだそうです。
「あなたがこのことを求め、
自分のために長寿を求めず、
自分のために富を求めず、
あなたの敵のいのちを求めず、
むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、
今、わたしはあなたの言ったとおりにする。
見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心を与える。
あなたの先に、あなたのような者はなかった。
あなたのあとに、あなたのような者は起こらない。
そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。
あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。
また、あなたの父ダビデが歩んだように、
あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、
あなたの日を長くしよう」(Ⅰ列王3:11~14新改訳)と。
天の神、主は、イエスの十字架刑での処刑の後、それまではただ、兄としてしか見ていなかったイエスが神の子キリストと分かったイエスの弟のヤコブを通しても、知恵を求めるよう勧めておられるのですね。
「あなたがたが父に求めることは何でも、
父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
求めなさい。そうすれば受けるのです。
それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」(ヨハネ16:23~24)と。
イエスの十字架刑での処刑によって、私たちのすべての罪は処罰済みになり、
すべてが許され、自由にされているのだそうです。
だから、何でも求めていいのですね。
しかし、すべてが益になるわけではない(Ⅰコリント6:12)。
私たちのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせてくださる神(ピリピ2:13口語訳)は、
私たちが、神を愛する愛によって、自由に、自発的に、ご自身と思いを同じにし、心を一つにすることを願うようになることを喜ばれる方。
私たち、なお、荒野のような、イエスの十字架刑での処刑によって死んだものとされた〔生れた時からの私〕という霊の願いのとおりに生きようとする者ですが、
イエスの十字架刑での処刑によって、砕かれ、開拓された良い土地(マルコ4:1~20)、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心を一新されたものとしていただき、
何が善いことで益になり、
神に喜ばれる完全ことかをわきまえる新しい心をいただいて、
神を愛し、
〔父である神〕の御思いを求め、
〔父である神〕と一つ思い、一つ心になって生きることを願うようにしていただけるのだそうです。
この新しい週も。
イメージ 1
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神は私の祈りを退けることなく
慈しみを拒まれなかった。詩66:20(5/21の週の聖句)
主はソロモンに、
「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。
「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、
この僕に聞き分ける心をお与えください。」列王記上3:5、9
あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、
だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。
そうすれば、与えられます。ヤコブ書1:5
ヨハネ16:23b~28(29~32)33
詩30(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/21;Ⅲ日)
あなたたちの耕作地を開拓せよ。
いばらの中に種を蒔くな。エレミヤ書4:3
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。
むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、
何が神の御心であるか、
何が善いことで、神に喜ばれ、
また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。ロマ書12:2
マルコ1:32~39
使徒2:42~47(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/22;月)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちの祈りを聞きれ、心に留めてくださる方、何でも願えと言ってくださる方なのだそうですね。
ダビデ王の跡を継いでイスラエルの王となった、若いソロモン。
天の神、主から、何事でも願え。与えようと言われた時、
自分のための長寿、富や敵の命を求めず、民を正しく治める知恵を求めたのだそうです。
天の神、主は、それを非常に喜ばれ、おおせられたのだそうです。
「あなたがこのことを求め、
自分のために長寿を求めず、
自分のために富を求めず、
あなたの敵のいのちを求めず、
むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、
今、わたしはあなたの言ったとおりにする。
見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心を与える。
あなたの先に、あなたのような者はなかった。
あなたのあとに、あなたのような者は起こらない。
そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。
あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。
また、あなたの父ダビデが歩んだように、
あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、
あなたの日を長くしよう」(Ⅰ列王3:11~14新改訳)と。
天の神、主は、イエスの十字架刑での処刑の後、それまではただ、兄としてしか見ていなかったイエスが神の子キリストと分かったイエスの弟のヤコブを通しても、知恵を求めるよう勧めておられるのですね。
「あなたがたが父に求めることは何でも、
父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
求めなさい。そうすれば受けるのです。
それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」(ヨハネ16:23~24)と。
イエスの十字架刑での処刑によって、私たちのすべての罪は処罰済みになり、
すべてが許され、自由にされているのだそうです。
だから、何でも求めていいのですね。
しかし、すべてが益になるわけではない(Ⅰコリント6:12)。
私たちのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせてくださる神(ピリピ2:13口語訳)は、
私たちが、神を愛する愛によって、自由に、自発的に、ご自身と思いを同じにし、心を一つにすることを願うようになることを喜ばれる方。
私たち、なお、荒野のような、イエスの十字架刑での処刑によって死んだものとされた〔生れた時からの私〕という霊の願いのとおりに生きようとする者ですが、
イエスの十字架刑での処刑によって、砕かれ、開拓された良い土地(マルコ4:1~20)、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心を一新されたものとしていただき、
何が善いことで益になり、
神に喜ばれる完全ことかをわきまえる新しい心をいただいて、
神を愛し、
〔父である神〕の御思いを求め、
〔父である神〕と一つ思い、一つ心になって生きることを願うようにしていただけるのだそうです。
この新しい週も。
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