朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

憐れみにすがっていいのだそうです。ダビデのように

2015-02-04 23:22:19 | 聖書から
憐れんでください、
神よ、私を憐れんでください。
私の魂はあなたを避けどころとします。詩編57:2







あなたがたは悪い者でありながらも、...
自分の子どもには良い物を与えることを知っている。
まして、あなたがたの天の父は、
求める者に良い物をくださるにちがいない。マタイ7:11





      (ローズンゲン日々の聖句2/5;木)










 イスラエルの王サウルに命ねらわれ、
荒野を逃げまわっているダビデの
天の神、主への叫びなのですね。





 ダビデは、自分のまじめさや誠実さ、
善行や功績を足掛かりにしてではなく、
ただ、主である方の憐れみに訴えているのですね。




 私たち、少しでもいい人間になって、きれいな人間になって、
それを足掛かりにして天の神、主の前に出ようとする者ですが、
それはイエスのたとえにもある、
王子の婚礼の席に、王の出してくれた礼服を着ないで、
自分の服のままで出席した人のようで、
王子の婚礼の宴にはふさわしくなくて、
外に放り出さた人のようですね(マタイ22:1~14)。




 婚礼に招待されていた人たちは、皆、断ったので、
大通りに出て行って、出会った人を集めたので、
みんな、礼服の用意などしていない人たちだったのですね。
それで、みんなが着ている礼服は、王が用意したものだったようです。




 天の神、主は、私たち人間のすべてが、
天国の宴会にふさわしい礼服(正しさ)を持っていないのをご存じで、
私たち人間に対する憐れみから
御自身の側で私たち人間が着る礼服(正しさ)を用意して
差し出していて下さるのだそうです。




 天の神、主は、
御子である方を人間として、人の世に生れさせ、
およそ33歳の頃、この方を私たち人間の身代わりとして
十字架刑で処刑し、私たち人間を処罰が終った者とする手続きを
完了して下さったのだそうです。




 そのうえで、さらに、もう一人の方、
聖である霊と呼ばれる方を私たちの内に派遣して、
この方によって、人間一人一人、各自に関わる御自身の御思いを
書き付け、この方の定め(御思い)を歩むようにすると
おっしゃるのですね(エゼキエル36:26)。




 聖である霊と呼ばれる方については、
「求めるなら受け、探す者は見つけ出し、
門をたたくなら開けてもらえる」ようになっているのだそうです。
「天の父が、求める人たちに、
どうして聖霊をくださらないことがありましょう」と
イエスは仰ったのだそうですから(ルカ11:13)。




 私たち、努力して、自分の義の衣を少しでもよくして、
天国の宴会にふさわしい晴れ着にしようとする道もありますが、
天の神、主は、

御子イエスの命をかけて
御自身が用意した礼服、
聖である霊と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって、心の思いを一新してもらって(ロマ12:1~2)、
この方から来る「思い」によって生きていく生き方を
受け取って欲しいのだそうですね。
今日も。


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罪に定められることはないのだそうですね。イエスによって

2015-02-04 01:36:39 | 聖書から
主はこう言われる。
彼ら(捕囚の民)に目を留めて恵みを与え、
この地に連れ戻す。
彼らを建てて、倒さず、
植えて、抜くことはない。エレミヤ24:6

今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、
罪に定められることはありません。ロマ書8:1    
     (ローズンゲン日々の聖句2/4;水)

背きの罪の結果、招いたバビロン捕囚でしたが、
償いは終わったものとして、捕囚から解放し、
エルサレムへ連れ戻して下さるのだそうです。

あの本には、
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、
二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために
来られるのです」(ヘブル9:28)
と記されていますが、一方的に判決が下されるということではなく、
言い開き(弁明)の機会はあるようですね。

それで、自分には罪がないと思う人や、罪の程度が懲役刑くらいだと思う人は、
なお、自分の努力で義を獲得出来るのでしょうが、
自分の背きが死刑判決を受けるものだと知った者にとっては、
天の神、主が、御子イエスの命を懸けて完了して下さった救いが希望なのですね。

このプレゼントを受け取った者には、
もはや罪の判決を言い渡されることはないのだそうです。
イエスによって処刑済みの手続きが完了しているのだそうですから。

そして、単に罪を赦したというところにとどまらず、
もう一人の方、聖である霊と呼ばれる方を派遣して、
この方によってご自身と思いを一つにし、心が通じ合う
家族の関係に入れようと招いていて下さるのだそうです。

あの方が、嫌だなと思うことを私たちも嫌だなと感じ、
あの方がしたいと思うことを、
私もしたいと願うようにして下さるのだそうです。
今日も。

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