「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」
オランダ人たちは、干拓や治水により国土を広げ、管理してきた。
1952年、農林省の「食糧増産5カ年計画」の一貫として八郎潟干拓調査事務所が設置、農林省からは多くの技術者がオランダへ留学し、またオランダの技術者も訪日が始まり、本格的な調査が始まった。
その2年後、オランダの干拓専門家で“八郎潟干拓の父”ともいわれたピーター・フィリップス・ヤンセン教授とアドリアン・フォルカー技師が招聘された。
そして1956年、農林省は、オランダ対外技術援助機関と技術援助計画を結び、 翌年に「八郎潟干拓事業計画書」を完成させた。
しかし、この計画は湖面の大部分が干拓され、従来通りの漁業の存続は不可能となってしまう。国が漁業権の補償を行ったが、交渉は難航した。