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輝く大地、水鏡の頃 (4) - 大潟村

2010-06-06 | 東北

1951(昭和26)年9月、サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本の独立が回復された。
そして、経済的自立とともに食糧増産が急務となった。

農林省は、八郎潟干拓を実施するため、翌年7月、八郎潟干拓調査事務所を設置した。
“八郎潟干拓”は、まさに「不死鳥」のごとく蘇ったのである。


ところで、日本の敗戦処理に際しては、西側諸国のほとんどの国が日本からの賠償を求めなかったのに対し、オランダだけは、ジャワ・スマトラなどでの日本の占領中の仕打ちがもとで、無償平和条約に強硬な反対があった。

講和条約の取りまとめに当たったアメリカ政府が、度重なるオランダへの説得を試みた結果、賠償の代わりに技術援助 (それ相応の技術料の支払い)に応じるならオランダも講和会議に参加する旨の感触が得られたとの報告が当時の吉田茂首相に伝えられた。

直ちに首相は、建設大臣に技術援助を受けるプロジェクトを考えるように指示した。
そして、浮かび上がった妙案が「農林省の八郎潟干拓」であったのだ。

いわば、八郎潟の干拓が、戦後の講和条約の推進に一役買ったということなのである。