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太平洋沿岸を飛ぶ (31) - 田辺湾 ・ 神島(かしま)

2010-02-15 | 近畿
1909年(42歳)、熊楠は『神社合祀反対運動』を開始する。明治政府は国家神道の権威を高めるために、各集落毎にある数々の神社を、1町村1神社にまとめるという「神社合祀令」を出した。廃却された境内の森は容赦なく伐採され、ことごとく金に換えられた。

熊楠は激怒した。神社林が伐採されることで自然風景と貴重な解明されていない苔・粘菌が絶滅するのなどを心配したのである。
「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に回復し得ぬを小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」と警鐘を鳴らした。
熊楠は、“エコロジー(生態学)”という言葉を日本で初めて使い、生物は互いに繋がっており、目に見えない部分で全生命が結ばれていると訴え、生態系を守るという立場から、政府のやり方を糾弾した。

熊楠はまた、民俗学、宗教学を通して人間と自然の関わりを探究しており、人々の生活に密着した神社の森は、子どもの頃に遊んだり、祭りの思い出があったり、ただの木々ではない、「鎮守の森の破壊は、心の破壊だ」と憤慨した。熊楠は新聞各紙に何度も反対意見を発表し、合祀を推進する県や郡の役人を攻撃した。そして彼は国内の環境保護活動の祖となった。

合祀反対運動に中央から協力したのが、当時内閣法制局参事官で、後の民俗学を起こす柳田国男だった。
その後、熊楠のひたむきな情熱が次第に世論を動かし、合祀令は発令10年にして貴族院決議で廃止となった。
その後も、熊楠は田辺湾の神島をはじめ、貴重な天然自然を保護するため、様々な反対運動や天然記念物の指定に働きかけをした。この戦いは晩年まで続き、熊楠が今日、エコロジ-の先駆者といわれる所以である。このような一連の活動は、2004年に世界遺産にも登録された熊野古道が今に残る端緒ともなっている。

1929年(62歳)、昭和天皇が田辺湾沖合の神島(画面左上、天然記念物に指定)に訪問した際、熊楠は粘菌や海中生物についての御前講義を行ない、最後に粘菌標本を天皇に献上した。戦前の天皇は神であったから、献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、なんと熊楠は“森永ミルクキャラメル”の空箱に入れて献上した。後年、熊楠が他界した時、昭和天皇は「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。

1941年12月29日、朝6時30分、「天井に紫の花が咲いている」という言葉を最後に、世界が認めた、巨大な在野の学者は、波瀾に富んだ生涯を閉じた。享年74歳。
田辺市郊外、神島を望む真言宗「高山寺」に眠っている。この寺の一角にあった日吉神社の境内の森を熊楠は生前よく訪れ、数多くの隠花植物を採集した。この神社の合祀と神木の伐採が、熊楠の神社合祀反対運動のきっかけとなったといわれる。

学歴もなく、どの研究所にも属さず、特定の師もおらず、ただの民間の一研究者。何もかもが独学で肩書きもない。国家の支援も全く受けずに、これほど偉大な業績を残した人間が実在した。


「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」 -南方熊楠-



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