つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡町の二つの祠のフェスティバル。

2012年08月23日 02時20分34秒 | 日記
「冒頭の一枚」は、小さな「地蔵堂」。
画面左に幟が3本。
その横に瓦葺の小さな祠。
奥には、津幡地域交流センター。
ちょうど新旧・津幡小学校校舎の間で撮影した。

普段は、固く閉ざされている扉が開いていたので、
滅多にお目にかかれない所を拝観する事が出来た。
左右三体づつを従えた、背の高いお地蔵様が鎮座。
なるほど、こうなっていたのかと頷く。

   

建物の風合いからして、この祠、決して新しくはない。
おそらく僕が小学生だった当時からあったはずだ。
しかし、こうして御開帳され、花や榊を供えた景色を見た記憶がない。

『八月二十五日(土)六時頃
 地蔵まつり
 おみこし修理竣工披露
 しょうず不動明王まつり
 清水夏まつりイベント』…とある。

何やら複数の行事が交錯しているようだが、
開催日時は、ちょうど仕事に出ているタイミングだ。
拝見できそうにない。
残念に思いつつ歩を進めると、他にも見慣れぬ景色が。

   

中須加の小さな祠に幟が掲げられ、
社を覗くと、中には幕が張られていた。
奉納者が「井上簡易水道委員会」と染められていた事から、
ここは水神様ではなかろうか?…と察する。
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津幡町より、残暑見舞い。

2012年08月20日 23時58分33秒 | 日記
週間天気予報を見てゲンナリする津幡町民は、僕だけではないはずだ。
最高気温はずっと30℃越え。
最低気温も夜9時を過ぎてようやく25℃を下回る見込み…。
立秋を過ぎ、やがて8月も終わろうかというのに、
文字通りの「残暑」である。

こうなると「今日の一枚」…「水饅頭」が恋しい。
くず粉を用いて作った透明の生地で餡を包んだ夏季の生菓子の一種だ。

一昔前まで、餡は小豆を原材料にした「こし餡」だったが、
最近は違うらしい。

   

撮影場所は、津幡町の和菓子処「加賀藩たかくら」前。
何ともバラエティ豊か!
近々いただいてみるとしよう。





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津幡町の晩夏、逞しく美しい花々が咲く。

2012年08月18日 09時07分09秒 | 草花
以前、側溝に根を張る植物について投稿した。
(※2012年5月4日記載)
また、近年の下水道整備によって水路から水が消えた事を投稿した。
(※2012年5月8日記載)
津幡町の住宅街に走る溝は、今や新たな植生の舞台になっているのだ。

「冒頭の一枚」が、その好例。
支柱・ネットから零れた種が芽吹いたであろう「朝顔」である。
ほんの数十センチの段差とはいえ、
自ら移動する術を持たない植物にとっては、高い障壁。
しかし、蔓を伸ばし見事にそれを乗り越えている。

次に「蔦」。

   

「つたう」(伝う)の意味で「つた」(蔦)となっただけあり、
巻きひげの吸盤で樹木や壁を這い上る、つる性植物だ。
2階建ての空き家を飲み込まんばかりに繁茂している。

土でも、トタンでも、コンクリートの隙間でも、
あらゆる場所に根を張り、葉を茂らせる姿は、まったく逞しい。
苛烈な環境だった太古の地球。
砂や岩石しかない不毛な環境だった陸上へ、
最初に進出した生物が植物だったのも頷ける。
先鞭を付けたのは藻類や苔類。
そして、進化を経て被子植物は美しい「花」を手に入れた。
前述の朝顔も蔦も、それぞれの花を咲かせ、
我々の目を楽しませてくれる。

他にも、季節毎に可憐な姿を見かけるが、最近のお気に入りは「百日紅」だ。

   
「散れば咲き 散れば咲きして 百日紅」- 加賀千代女
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津幡町、2012年の送り盆と35回目の命日。

2012年08月16日 07時38分32秒 | 音とアート。
本日は「送り盆」。
祖先の霊が、来世へと帰ってゆく日である。
きのう、まだ現世に留まっているうちに
お墓参りを済ませた方は少なくないだろう。
僕も同じだ。
「今日の一枚」…津幡町の「鷹の松墓地公園」には、
真新しい仏花が供えられ、細く立ち上る煙と共に、線香の香りが漂っていた。

そんな墓地公園の一角に、奇妙な場所を発見。
いわゆる「軸石」が隅の方に集められていた。
無縁仏のエリアかとも思ったが、法名を刻んだものもあった。
古くなって取り換えられたのかとも考えたが、新しそうなものも混ざっていた。
何だろう?
まるで墓石の墓場のようである。

   

   

…さて、8月16日は、ロックの帝王の命日でもある。
レコード売上記録30億枚以上は世界一。
ヒットシングルの数と、一日に売れたレコード枚数も世界一。
最も長時間ナンバー1にエントリーさせたアーティスト。
最も成功したソロ・アーティスト。…その記録に残る偉業の数々からも一目瞭然。
「エルビス・プレスリー」は、間違いなく“帝王”だ。

そのデビューは鮮烈だったという。
過去の白人シンガーにはない、力のある声。
加えて、甘くソフトな一面もあり、ゴージャスでメリハリのある声。
「エルビス・プレスリー」は、
黒人のように歌える白人歌手として、一躍、時の人に。
激しく歌いながら踊るパフォーマンスと併せ、話題と非難の的になる。
白人の大人達にとってガマンならなかったのは、
自分達のモラルを覆された事だった。

…【我々より劣るはずの、黒い肌の音楽が支持されている。】…
…【歌っているのは、田舎者で庶民階級の出身だ。】…

そんな批判が渦巻く中で、彼が出す曲は次々とヒットチャートを席巻。
圧巻は1956年。
「ハウンド・ドッグ」の11週連続と、
「冷たくしないで」の11週連続防衛。
同じシングルのAB両面でナンバー1の座を22週間に渡って制覇し、
驚異のベストセラーを記録。
「エルビス」は、過去の常識など、監獄送りにしてしまったのである。

   

ロックンロールを世界に広め、世界中のポップスと文化を変えて、
人類の思想にまで波紋を投じたと言っても過言ではない偉人…
「エルビス・プレスリー」。
たとえ彼のファンであろうとなかろうと、
彼以後の世界を生きている以上、大なり小なり影響を受けているのだ。
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終戦の日~津幡町・中条の忠魂碑。

2012年08月15日 07時54分44秒 | 日記
「今日の一枚」は、津幡町「中条公民館」前に建つ「忠魂碑」。
砲弾を模したかのようなモニュメント横には、
「大正十五年五月建立」と刻まれている。
…という事は、西暦にすれば1926年。
今から86年前であり、ちょうど昭和元年と交錯する年だ。

大正とは…「大正デモクラシー」に象徴される近代の安定期。
江戸幕府を倒して明治に興った大日本帝国が、
第一次大戦の勝ち組に入り、五大国へとのし上がった時期。
同時に、日本が次なる戦いへと突き進む事となる転換期にあたる。
国内では、好景気と不景気の大波に襲われ、
都市に享楽的な文化(大正デカダンス)が生まれた反面、
米騒動に代表される騒乱、労働争議の激化など、社会的な矛盾も深まった。

そんなタイミングで、日本の片田舎に建立された忠魂碑。
日清・日露の両戦役で散った御霊へ捧げたであろう事は容易に想像できる。

そして、ちょうど67年前の昭和20年(1945年)8月15日。
第二次大戦において、日本は負け組となり、過去をリセットさせられた。
それから暫くの間、忠魂碑は隠匿されていたようである。
傍の石板には次の様に記されていた。

『英霊を祭る詞
 この忠魂碑を仰ぐ人々に告ぐ。
 一身を犠牲にして其の民族を護るは古今を通じて人類最高の美徳である。
 此処に合祀された百有余柱の英霊は、明治大正昭和期に於て日本民族躍進の
 礎となった殉国の志士と大東亜戦に従事し日本の民主主義確立と東亜諸民
 族の獨立成就のために身命を捧げた英雄である。
 戦後久しく北中条本福寺に待避しありたる忠魂碑を復蹄合祀する声起るや
 区民挙げて之に賛し数旬を出でずして竣工を見たのである。
 是れ一重に英霊を欽仰する区民の誠の至す処と言う可きである。
 英霊は永遠に郷里の人々の心の中に生きてこの町の平和と繁栄の為には
 たらいて下さることであろう。
 之の碑を仰ぐもの常に其の遺徳を思い之に応えんと努力すべきである。
 芳名を刻して其の徳を子孫に伝えん事を念願する。

 昭和三十二年八月 
                              中條地区民一同』
(※文面、碑文のママ)
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