つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

大人の階段を昇る舞い。

2021年11月20日 21時30分30秒 | 日記
                       


現在「津幡町ふるさと歴史館 れきしる」にて、
企画展「津幡の獅子舞~川尻区~」が開催されている。
本日お邪魔してきた。

津幡町・川尻(かわしり)は、河北潟干拓地と境を分ける「東部承水路」に接する一帯。
文字通り、町中を流れる津幡川の最下流域にあたる。
土壌に恵まれ、古くから稲作が盛ん。
干拓以前、河北潟が今より広大だった頃は漁業の拠点で、
金沢~内灘~能登へ通ずる水運の要でもあった。

そんな活気に溢れていたであろう川尻では、少なくとも明治以降、
秋祭りになると「二組の獅子」が出るのが恒例である。



並んで展示されている獅子。
胴体にあたる蚊帳(カヤ)の色柄、獅子頭のデザインは違うが、
サイズ感も異なるのが分かるだろうか。
向かって右、やや大きい方は「大獅子」。
モニターを挟んだ左は「俄(にわか)獅子」。
--- 今回は取り分け、後者の様式について取り上げてみたい。



【川尻集落には伝統的に継承されているものの中に「寄所制度」がある。
 いわゆる「若衆宿」のことであり、当集落に生まれ育った男性は
 中学校を卒業した年にこの集団にほとんどが加入する習わしである。
 <中略>
 そこでは相互扶助や団結心はもとより先輩から色々なことを学び、
 教えを乞うなど、大人になる教育の場であった。】

(※企画展資料より引用/抜粋)

「俄獅子」は、その寄所からの卒業イベント。
二十歳を迎えた若衆が成人へ、少年から大人へ変化(へんげ)する時の通過儀礼だ。
急に降りだして程なく止んでしまう、短時間の雨を「にわか(俄)雨」というが、
一生に一度きり、青春の祭礼に「俄」の字を当てるのは相応しい気がする。



昭和9年(1934年)の記念撮影には、勇ましい法被姿の若衆に混じり、
三味線片手に収まる日本髪の鯔背(いなせ)な姐さんの姿も。
かつては、現在の笛太鼓に加え、お囃子の定番だったことがうかがえる。



上掲画像は、川尻地区に鎮座する社の1つ「医師(くすし)神社」。
露店が出て、人が集う様子から獅子舞当日と察するが、
昭和46年(1971年)当時の屋根は茅葺。
本殿左右に狛犬ではなく石灯篭が建つのも興味深い。
今とはずいぶん違う印象だ。



こうして時を経た風景を見比べてみるのも一興である。
れきしる企画展「津幡の獅子舞~川尻区~」は、
来月・(2021年)12月12日(日)まで開催中。
興味があり時間と都合が許せば、足を運んでみてはいかがだろうか。
                     

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