つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

石を眺め、考えて、遡る時。

2020年04月18日 16時58分08秒 | 日記
度々、拙ブログに登場する「大西山」。
津幡小学校校歌の一節 ---
“古城址に河北の花と 大西山の丘辺に立てば 山はみどりに潟ひらけたり”
---とあるように、標高15メートルあまりの小高い場所には、
かつて「津幡城」があった。
往時の面影はなく、僕が通った学び舎もなくなってしまったが、
「忠魂碑」だけは変わらず、風雪に耐えている。

昭和15年(1940年)、日本各地で行われた「皇紀2600年記念事業」が、
建立に関わっている可能性は、以前にも書いたとおり
改めて観察してみると、幾つか気付いた点がある。

本体周囲の石灯籠や石柵、板石などには、寄贈町会名が刻まれていた。
「八幡会(清水)」、「住吉会()」、「太白会(津幡)」の3つを確認。
それぞれ、地域の鎮守を冠した名前で、今も使われている。
いわゆる旧津幡四町にあたるが、残りの1つ「白鳥会(加賀爪)」は発見できず。
その線引きの理由は何だろう。
単に大西山を起点とした距離の違いなのか?
あるいは?--- 想像すると興味深い。 (※カッコ内下線部は、現住所)

次に注目したのは、忠魂碑エリアに建つ「津幡城址」の石碑の後ろ、
背の低いサイコロ状の石柱。
正面には「元標(げんぴょう)」と刻まれている。

「道路元標」を辞書で引くと、以下の記載。
『道路の路線の起点・終点または経過地を表示するための標識。
 旧道路法では、各市町村に一個ずつ置かれ、石材その他の耐久性材料を使用し、
 表面に市町村名が記載され道路に面し、路端に立てられ、
 東京都のものは、日本橋の中央と定められていた。
 現行法では、設置義務や材質、様式の定めはない。』

画像のそれには、以下の文字。
裏面に「昭和十八年六月一日」。
上面に「海抜 十四米六」。
左に「東経 百三十六度四十四分十××」。
右に「北緯 三十六度四十分十××」。
緯度経度の××伏字は風化あるいは断裂していて、判然としない。

この「元標」から、この場所が津幡町にとって何らかの基準点らしいことは窺える。
そして、これが設置された頃は、大変な激動の只中だった。

2月1日  日本軍ガダルカナル島の撤退を開始。
3月18日 戦時行政特例法・戦時行政職権特例各公布。
4月18日 連合艦隊司令長官「山本五十六」戦死。
5月29日 アッツ島の日本軍守備隊2500人玉砕。
6月25日 「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定。
      学徒は学業を休止して軍需生産に従事することを規定。

後世を生きる僕は知っている。
既に敗色濃厚。
下り坂の終点は破滅。
後には混乱と苦難が待っているという事を。

昭和18年を生きた先達たちは、どんな心境で暮らしていたのだろうか。
何を考え、この「元標」を置いたのだろうか。
それを知っているのは、物言わぬ石だけだ。
コメント
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